昭和村 あんじゃ こんじゃ -018-019/057page
[ 峠 ]
2. 【 吉尾峠 】
天明8(1778)年に記された『東遊雑記』によると、幕府巡見使が梁取から布択を経てこの峠を越えて野尻に宿泊したという記録があり、古くから人の往来も多かったようですが、比較的なだらかな峠にも崩れやすい難所があり、雪のない季節でも一人旅は危険といわれていたほどです。
布沢とは人の交流も多く、春の彼岸頃にはこの峠を越す花嫁行列も見られたといい通行量も多かったそうですが、現在はその面影を残すのみです。3. 【 旧鳥居峠 】
鳥居峠の名前には由来があり、昔、ある人が会津高田町の伊佐須美神社に鉄の鳥居を奉納したが、ご神体の蛇は金気を嫌うといわれていました。その後おこった暴風で吹き飛んだ鳥居はこの地まで吹き飛ばされて峠に突き刺さったところからこう呼ばれるようになったとか。
南郷村からは、明治中期まで主要ルートにしてきましたが、新鳥居峠ができてからは道も途絶え、現在はヒメサユリの自生地になっています。4. 【 転石(ころぷし)峠 】
「ころぶし」と呼ぶこの峠は、田島町黒沢と昭和村大芦を結び、車が普及するまで利用されていた峠道です。駒止峠に次ぐ標高で、頂上近くが急坂になり通行く人は苦労したようです。明治初年に田島町黒沢の細井家に郵便局が設置された頃からしばらくは、大芦へも峠を越えて配達に来ていたそうです。5. 【 大辺峠 】
美女峠と並ぶこの峠は、昭和49年の林道開通によってできた近代の峠。標高1000メートルの位置にあり、「間方スカイライン」とも呼ばれた、眺めのいいルートです。この峠にも地蔵峠という名の旧道も残っていました。この道を三島側に下ったところに、志津倉岳の登山口があります。6. 【 美女峠 】
古くは「美女帰峠」と書き、「びんじょうげ」「びんじょうぎ」とも呼んでいたロマン漂う峠の名があります。みめ麗しい美女が、恋人の帰りを待ちわびる伝説が残っています。
天正17(1585)年に伊達政宗の会津攻略で、金山谷の山ノ内氏を攻める伊達勢がこの美女峠を適って野尻牛首城に入ったといいます。
三島町宮下へ繋がる三谷街道は通称美女峠街道とも呼ばれ、昭和村からは会津若松方面へ、三島からは昭和村を経て田島代官所へ行くのに便利なところから人の往来が多く、また、新潟から来る塩の運搬ルートとして重要な道でした。
7. 【 舟鼻峠 】
昭和村・田島町・下郷町の境界部分にある峠で、難所こそないものの峠途中にはヘアピンカープが多く、車の往来の大変だった道でしたが近年は改良され道も良くなってきました。江戸時代には年貢金・年貢米の搬送や、野尻組(昭和村)の麻の出荷に利用されてきましたが、明治に入って田島とは別々の行政区に入ったため、交通の要路からははずれていきました。
● ひっそりと面影を残す舟鼻峠旧道8. 【 新鳥居峠 】
明治31年に鳥居峠の新道として整備された南郷村への峠です。明治末期には大芦の養蚕農家の繭がこの峠を越えて南郷村山口の製糸工場へ、最盛期には毎日馬で5、6頭の馬につけられて運ばれたといいます。地方主要道路から国道401号となり、現在も整備の進んでいる道ですが、三階山のあたりはパケモノ討伐平と呼ばれるほど鬱蒼とした森林地帯であったといいます。
9. 【 喰丸峠 】
喰丸峠旧道はハイキングコースになった(けやきの森遊歩道)