下野街道(南山通り) -002/109page

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 「長江」は、鎌倉時代の九条家文書『摂祿渡荘目録』にある「陸 奥国 長江庄」で、陸奥国南山の名称で関東の豪族長沼宗政が地 頭職として所領化している。陸奥国南山地方は、寛文年間の『会 津風土記』記載の湯原郷、九々布郷、楢原郷、田島郷、針生郷、 関本郷の大川流域の各郷に立岩郷、伊南郷、伊北郷を加えた地域 を指すもので、『大日本地理志料』もこの説に従う。

 戦国期に入っても約四〇〇年間は長沼氏が統治したが、永禄一 一年(一五六八)、会津一円を支配したいとする蘆名氏との抗争 に敗れ、長沼氏は蘆名氏の支配下におかれる。約二〇年余りは蘆 名氏の時代が続いたが、天正一七年(一五八九)六月五日、伊達 正宗が会津の盟主となる。しかし、伊達氏も、ほぼ全国統一をな しつつあった豊臣秀吉の裁定により僅か一年で会津の地を離れ、 戦国末期は、以後、蒲生氏、上杉と交代する。

 時代は近世となり、再び蒲生氏に引き継がれたが寛永四年(一 六二七)に蒲生氏が没し、変わって加藤氏が伊予国松山二十万石 から会津四十万石に迎え入れられた。寛永二〇年(一六四三)加 藤氏は重臣との不和から突然所領を返上するという前代未聞の事 件が発生する。幕府は、会津に三代将軍家光の異母弟保科正之を 三万石加増の上も南山地方は幕府領として分割した。しかし、こ の南山御蔵入領約五万石も、幕末までの約二二〇年間のうち、幕 府の直支配はわずか四三年間で、会津藩の預り地として私領同然 の統治権をもって治められている。

 下郷町には、中世の舘跡が一五ケ所確認され、南北朝期を下ら ないとされる重要文化財の「中の沢観音堂」が存在するなど、古 くから高度な文化が根ざしていたことが伺え知れる。また、戦国 末期から江戸時代初期には、松川組二二ケ村、楢原組二四ケ村、 弥五島組五ケ村、小出組九ケ村の四組六〇ケ村が確立し、時代が 安定期に入ると、会津と関東を結ぶ重要な街道の宿駅をもつ村々 として栄えた。

 幕末、戊辰戦争の勃発ともに会津一円は戦火の渦となる。下郷 も街道沿いに限らず四方が戦場となり、幾つかの集落は焼き討ち に遭っている。今も、町内のあちこちで会津藩に限らず東西雄藩 の藩士の墓が、道の傍らにひっそりと建っているのを見ることが できる。

 時代は明治となり、明治二年には若松県に、同九年には福島県 に属する。明治二二年の町村政施行とともに、旧村々を合併して 楢原村(昭和二一年に楢原町)、長江村、二川村、旭田村が誕生 し、昭和三年には長江村、二川村が合併して江川村となり、昭和 三〇年に一町二村が合併して現在の下郷町となった。

 明治一七年には現在の国道が大川筋に開通し、鉄道も昭和六年 には会津若松から湯野上まで、昭和九年には田島町まで延ばされ た。産業は飛躍的な発展をみせ、新しい商業集落も形成されたが、 反面、江戸時代に宿駅として栄えた旧街道筋の村々は、山間の村 と化していった。

 第三節 下郷町の概況

 下郷町の総人口は、昭和三〇年には一四、九七九人であったが、 四〇年には二一、五八一人、五〇年は一〇、二〇八人、六〇年は 九、〇三三人、平成七年には七、九五一人と減少しており、減少 率は県内でも高いものとなっている。

 産業別就業人口の構成比をみると、昭和三〇年に全体の七五% を占めていた第一次産業は、昭和五〇年には四七%、平成七年に


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