下野街道(南山通り) -003/109page

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は二一%と激減し、代わって第二、第三次産業が大きく伸びてい る。第二次産業は昭和三〇年が一七%、昭和五〇年二七%、平成 七年が四一%となり、第三次産業においては、昭和三〇年にわず か八%であったものが、昭和五〇年には二六%、平成七年におい ては三八%と年々目覚ましい増加を示している。

 第一次産業人口の減少をもたらした要因には、前記の地形的要 因(総面積の八五%が山林)に合わせ、日本経済の高度成長に伴う 都市と農村の格差からくる若年層の都会志向による流出と、現金 収入なくしては生活できない社会状勢が生み出した歪みであると 言える。

 一方、第三次産業は、史跡豊かな会津若松市が隣接し、昭和六 一年には首都圏と南会津側を結ぶ会津鬼怒川線も開通。通過型で はあるが多くの観光客が訪れるようになった。さらに平成に入る と重要伝統的建造物群保存地区「大内宿」の存在が、首都圏をは じめとして全国に知られるようになり、観光ブームも相まって下 郷町は一躍観光立町と化しつつある。現在、大川ライン塔のへつ りには四八万人、大内宿には六九万人の人が訪れている。

 しかしながら下郷町の経済の基盤が農業であることに変わりは ない。

第二章 下野街道の概要

第一節 街道の呼び名

 会津若松から、会津藩領と南山御蔵入領を分ける大内峠(標高九 二〇m)、陸奥国と下野国の分水嶺山王峠(標高九三五m)、更に幕 府領と宇都宮藩領を分ける高原峠(標高一、二〇〇m)を越えて日 光神領今市宿に結ぶ下野街道は、多くの呼び名をもった街道であ る。

 会津藩の公式記録である『家世実紀』(一六三一〜一八〇六)で は、主に「南山通り、南通り」を用い、希に「川治通り」も使わ れている。

 十七世紀後半の『会津風土紀』では「下野路」と呼び、下って 十九世紀の『新編会津風土紀』では、これを「下野街道」に統一 するとしている。

下野街道宿駅図
下野街道宿駅図


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