下野街道(南山通り) -004/109page

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 江戸ではこの街道を「会津街道、会津西街道」と呼び、広義の 越後街道の一部としていた。また、この街道の中間である幕府領 の南山地方では、「日光街道」や「会津西街道」と呼び、下野国 では希に「中奥街道」と呼んだ例もある。

 街道の呼び名は、その行き先を告げたものであるから、その地 方によって呼び名が異なることは当然なことと考えられるが、下 野街道がこのように多くの呼び名をもつということは、街道筋の 人々の情感と愛着の現れであると思われる。

 下郷町教育委員会は、街道名を統一したとする文化六年(一八 〇九)の『新編会津風土記』と昭和五九年(一九八四)に福島県 教育委員会が編集した『歴史の道・下野街道(南山通り)』から、 本報告についても下野街道(南山通り)とした。

第二節 みちすじ

 下野街道は、会津若松城下大町札の辻から、北に万年雪を戴く 飯豊連峰、東にひときわ高くそびえる秀峰磐梯山を背にして南下 し、城下からほぼ一里の行程で阿賀川(通称 大川)に出る。大 川には船渡場があり、渡場のあった上米塚村は、芦名時代に米蔵 が置かれていたことから《米塚》或いは《米丘》と称されるよう になったと伝える。

 『新編会津風土記』によると「村東ニテ鶴沼川(大川)ヲ渡ス、 府下ヨリ下野国二通ル街道ナリ、冬月ハ、橋ヲ架ス」とあり、冬 期間の渇水期には船渡しは行われていなかったようである。

 街道はまもなく陶器の里本郷町に入る。本郷の陶器は文禄二年 (一五九三)、蒲生氏が城郭修理のため屋根瓦を焼かせたのが始ま りで「其の製なおいまた精巧ならすといへとも本郷焼とて甚だ民 用に便あり」とされ、正保二年(一六四五)に尾張国瀬戸の住人 水野源左衛門が村内の陶土を用いて陶器を焼き、名声を博して量 産に入ったと云われている。本郷にも以前には宿駅がおかれたが、 蒲生時代に願いにより隣村の火玉村(福永村)にこれを譲ってい る。

南山通御荷物上り候を、其の地におろし候儀、
迷惑之由聞届候、向後は火玉迄当町之者通し候
様にと申付候間、可得其意者也。
十二月一九日

岡半兵衛尉重政 花押
町野左近助繁仍 花押

本郷町肝煎中
 福永宿は、府下より二里二一町。会津盆地の最南端に位置し、 これより山間部に入る所でもある。村の北には、西方に出ると脇 街道である藤田宿から高田宿に通ずる小道、東方には大川流域に 散在する村々に通ずる道があり、前述のごとく蒲生時代から駅所 が設けられていたことから、この周辺の中心であったことが伺え る。街道は、大内峠より流下する火玉川に沿って進むと一九町で 関山宿に入る。

 関山宿は、古くは福永村の端村であったが、寛永一八年、散在 する民家を集めて一村とし、駅所としたところである。慶応四年 (一八六八)の戊辰戦争の際に焼失しているが、現在も町地割り は整然とし、宿駅として栄えていた時代を偲ぶことができる。関 山を出ると道は山裾を曲がりながら除々に坂道となってくる。戊 辰戦争によって犠牲となった戦没者の墓標を路傍に見ながら栃沢 集落に入る。旅人はこれより標高差約四九〇mの大内峠頂上目指


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