下野街道(南山通り) -005/109page
し、九折りして山を登り一旦六石山の北支尾根に達する。尾根を 縦走するように約二〇〇mほど進むと、直径二メートル、高さ一 メートルほどの盛土(伝 三郡境の塚)が街道左手に接して存在 する。これより天領南山御蔵入領(下郷町)である。 旧街道は、三郡境の塚から再び三折りの峠道を登り、さらに約 一キロメートルほどの緩やかな坂道を上って大内峠の頂上に達す る。大内峠をもって会津城下の見納めともなる。
大内峠の頂上平場には茶屋があり、峠を少し下ると街道の両側 には城下から五里の一里塚が残る。その間を縫うように進むと大 内ダム(旧大内沼)の広がりが視界を開け、旧道もダムの水面下 となる。
再び姿を現すのはダムの堰堤下からで、道筋には桜木姫の墓や 台石に《右若松 左柳津》と彫られた地蔵菩薩の石像が建ってい る。柳津宿は、前記した大内宿から高田宿、坂下宿に至る脇街道 に存在する宿駅で、大内宿から越後国へ抜ける近道でもある。
道はかぎ形に曲がり、石碑群を右手に大内宿に入る。大内宿は 現在も江戸時代の宿場の面影を色濃く残し、旧街道を挟んで道の 両側には茅葺き屋根の民家群が整然と軒を並べている。また、大 内宿の西方には、高倉宮以仁王の潜行伝説とともに地区の最大の 信仰を集めている高倉神社が祀られている。建ち並ぶ茅葺きの町 並みを四〇〇mほど進むと再び県道に出る。そのまま約七〇〇m 南進すると権現橋があり、この橋と県道に挟まれた中央の細道が 旧道で、右にカーブを切って進むと一里塚がある。しかしこの一 里塚から再び道筋は耕地整理のため失われ、道はほぼ南西へ直進 した杉林の中に道形を現す。以後沼山集落で一部県道と重なるも のの、これより約二キロメートル区間は県道下郷・会津本郷線と 平行して山側を進んでいる。
中山集落の約四キロメートル手前で県道に出た旧道は、集落の 南外れまで県道となり、集落中央にあった中倉一里塚も今はその 形を失っている。中山集落は、中倉村・桜山村が明治八年に合併 して中山村となり、その後、明治二三年に楢原村の一集落となっ た所である。
『新編会津風土記』によると《桜山村の南一町余りに南原と呼ぶ 東西六町、南北七町の原野あり》とある。この原野は、現在も町 有地としてそのまま残り、旧道はこの原野と県道の間を走ってい る。道は緩やかな坂を上り中山峠の頂上にでる。前方には、那須 連山の山々と下郷の町並みが一望に広がる。
この中山峠も南側からは高低差約二〇〇mと嶮しい峠であり、 道筋は峠付近から二筋となり、約一七〇m下って再び一本となる が、急な下りを終えると道形は無くなる。ふたたび旧道の道形が 現れるのは、県道を約八〇〇m下った峠中腹地点で、お庚申様と 呼ばれる石塔群とともに《左ハ若松 右ハやま》と彫られた道標