下野街道(南山通り) -006/109page
の根元に道形は現れる。旧道はそのまま県道を斜めに横切り、水 抜村に入る。水抜村西端にも《右和加松(若松) 柳津海道 左 戸石□ みち》と彫られた道標が残されている。
水抜村は倉谷村と接して一集落のようになっており、道は県道に 吸収される。
『新編会津風土記』によると、倉谷村はもと串谷村といったが治 承年間、高倉宮以仁王が通ってから今の名に改めたと伝えている。 下野街道の駅所として栄え、この地域の中心地として寛永年間か ら貞享年間には六斎市も立てられた。大内宿までは二里二町、次 の楢原宿までは三二町の宿駅である。道は村東端より南にカーブし戸石川に架かる橋を渡る。近世は、 《村より辰巳の方二町下野街道あり、戸石川を架す・・・長十間 土橋なり》とあるから、橋は現在の位置より下流に架かっていた ものと思われる。
橋を渡り戸石川の右岸に沿って進むと小池村でT字路となり、 旧道は直進して林道に入る。県道は東に折れ現在の国道へと繋が る。旧道は緩やかな坂道となり、矢の原と呼ばれる丘陵地に出る。 矢の原にも一里塚(若松から七里)があったが、戦時中の食糧増 産時に崩され畑地にされたと言う。林道となっている旧道は丘陵 から一〇〇mほど下り、再び登りとなって八幡峠へと向かう。峠 手前は十字路となり、右に折れると見明山の東山麓、左に折れる と街道下の村々へ通ずる道である。旧道は直進して八幡峠頂上で 左に折れ、雑木林を三折りして再び林道に戻る約一五〇m区間が 辛うじて昔の道形を残す。道は南下を続け、八幡神社前を通って 楢原宿の北端に出る。
楢原宿内における旧道の道形は、現在の国道一二一号線に完全 に吸収され、楢原集落の屋敷割り形態だけが辛うじて往時を偲ば せる。楢原村は中世の奈良原郷の中心地で、江戸時代には楢原組 の郷頭として栄えた。下野街道の下郷分については全て楢原組に 属している。正徳六年(一七一七)の『村明細帳』によると、村 高二七七石余り、家数七六戸、人数三九九人で「会津、米沢、越