下野街道(南山通り) -007/109page
後御侍衆、秋春少々御通被成候」とあり、次の田島宿までの一里 四町を本馬七〇文、軽尻四七文の賃銭で送っていたことが述べら れている。
街道は国道を南下し、上総、小山、倉、岩本の各村を経て、一 里塚のあった「壇の坂」地点から川沿いに下り、北側から落ちる 入山沢を横切って沢口の上流より大川を渡河して田島町分に入っ たのである。
この大川の渡河場所は「長野の渡し」と呼ばれ、明治十一年(一 八七八)ここを通ったイザベラ・バードは手操りの船で渡っている。
田島側の渡し場周辺は、現在も「舟場前」という字名が残るが、 舟場前から長野村端村の下川原までの区間は、圃場整備により道 形を無くしている。旧道の道形は、唯一集落を形成する段丘状斜 面に一〇〇mほど残るが、長野村に入るととも道筋は県道高陦・ 田島線となる。街道は西へ向い、府下より十里の田部原一里塚が 片側だけ残っている。この付近は幕藩時代の刑場で、古くは天正 十九年(一五九一)の太閤検地の際に、検地役人と下郷赤岡村百 姓との間に紛争があり、役人を殺害した科で百姓六〇余名が誅殺 された所でもあると伝える。(『田島町史資料集』9)
道は水無川の河川敷きに出るため一旦下りとなる。川を渡って 急な左岸の道を上ったと思われるが、現在は下り口と上り口を確 認できるのみで、川幅四〇〇m区間は特定できない。道は更に西 へと進み、八〇〇mで田島の宿に入る。
田島宿の入口には木戸口が置かれ、道は木戸口より一直線に西 へ延びていた。旧道は国道一二一号線となり、町中は昭和に入っ てからの二度にわたる大火のため、道幅が広げられ、旧態を偲ぶ ことはできない。
田島宿は、南山領の中心地で《府城の南に当り行程十里十二町 余、家数二百廿二軒、長二十町余幅八間・・・・》となっており、承 応四年(一六五五)の『田島村縄引帳』や天保三年(一八三二)の 『宗門改帳田島村』をみると、町の中央には問屋が置かれ、郷頭や名 主宅とともに宿屋が建ち並んでいる。問屋の反対側には陣屋が置かれ、 問屋の南側は役所や役宅が建っている。正保二年(一六四五)『田島 町差出帳』によると、「当町之義ハ若松ヨリ江戸江之道筋ニ御座候間、 往来之旅人之宿仕、荷物之駄賃を取申候、・・・」とあり、大半が宿 屋や物資輸送の駅所業務に携わっていたものと思われる。
旧道は、田島町上町で一旦国道と分かれて左折し、左手の愛宕 山麓を廻るように進むが、再び国道に戻って南下を続ける。部分 で国道の東側或いは西側に見え隠れしながら中荒井村に達し、荒 海川の支流を渡って川島宿へと入る。
川島宿は田島宿からほぼ一里の距離にあたり、《府城の南に当 り行程十一里二十八町余家数五八軒・・・・》とあり、散居集落 が集合して駅所となったと伝える。
川島宿を過ぎると関本村に入る。国道は南進するが関本地内の 旧街道は、鉄道線路の東側、町道川島・関本線で、会津鉄道の会 津荒海駅に突き当たる。現在この地域は駅構内や製材所となり一 部不明となるが、「馬場ガ原」と呼ばれる所に出ると農道として 使われている旧道が原形で姿を現す。道は山際に至り坂を下って 今泉に入る。今泉村は糸沢村の端村で、この両村の間には一里塚 があったが国道の改修工事により消滅している。国道を進むとバ イパスとなって左にカーブをとるのに対し、旧道は西に分岐し三 〇〇mで糸沢宿に入る。
糸沢村(端村 今和泉 古内 羽塩 宇治山)とあるように、前 記した馬場ガ原から山王峠の頂上までを占める大きな村である。会 津城下より十二里二十八町余。宿駅は本村の五三戸で構成された。