下野街道(南山通り) -008/109page
『糸沢村覚書』によると元和六年(一六二〇)から駅所業 務を行ったとある。また同覚書では、川島宿が寛永一四年 (一六三七)に馬次となり、田島宿までだった馬継ぎ駄賃 を川島宿までとしたことが述べられている。また、『田島 町史巻6下』収蔵の『糸沢村宿駅勤方書上』には、会津宰 相寓(蒲生秀行)、加藤式部少輔(明成)、保科肥後守 (正経)といった江戸時代初期の会津藩主が宿泊してお り、越後新発田城主溝口信濃守、越後村上城主榊原式部大輔と他 藩の大名も本陣としたことが記されている。
会津を朝出立した大名は、糸沢宿までの約十二里半の道程を一 目で踏破しているのである。糸沢宿を出て端村の羽塩村に入り、羽塩平を東に大きく曲がる と正面には三角錐の貝鳴山が大きく現れる。道は標高九三五mの 山王峠の峠道となり、山王川の沢を一キロメートルほど登ると萩 野原に出る。萩野原にも一里塚があった。羽塩と山王峠の中間に は「山王茶屋」があり、元和三年(一六一七)に峠を越す人たち の休憩所として設けられたと伝える(「南山新道中記」)。茶屋を 出、陸奥国と下野国の分水嶺となっている山王峠の頂上に立つと、 弘化元年(一八四四)の馬頭観音碑が建っている。
峠を下ると下野国横川宿である。横川宿は、《府城の南に当り 行程十五里二十四町、家数三二軒・・・・糸沢宿より二里十二町、 此より二里二十町中三依村駅に継く村の西南に一里塚あり》とあ り、寛文元年(一六六一)に糸沢宿より口止番所が移されている。 横川宿より中三依宿に入る。この間に上三依村があり、この村は 文政九年(一八二六)に中三依宿が大火にあい、機能が停止した ときその肩代わりをしている。
中三依村は、《府城の南に当り行程十八里、家数四八 軒・・・・村北に一里塚あり》と記されている。この一里塚付近 の旧道の道形は、国道一二一号線の東側、男鹿川左岸に平行して 走り、一里塚とともに旧態の形で保存されている。
中三依駅より五十里宿に入る。五十里村をもって幕府領(会津 藩預地)最南の端村となる。五十里宿は、天和三年(一六八三) の日光地震により水没し、享保八年(一七二三)までの四十年間 は湖上輸送をもって対応したが、宿機能はほとんど失っていた。 五十里瑚の出現は、参勤交代路の変更や宿駅荷物の大幅減少とな り、街道筋の宿駅にとっても大きな打撃であった。
道は、五十里より高原峠(標高二一〇〇m)越え、宇都宮藩領 高原新田宿に入る。以前は五十里〜藤原間を継ぎ送りしてたが、 延宝五年(一六七七)に五十里村から会津藩に嘆願され、高原新 田宿の取継ぎが開始されたと伝える。会津から二一里二五町の距 離にあたる。高原新田宿から藤原宿に入る。道は平坦となり、大 原宿、高徳宿と進み、鬼怒川を渡って日光神領「大桑宿」に継ぎ、 下野街道の終点である今市宿に継ぐ、会津から二九里二七町の道 程である。
ここから江戸へは、板橋−鹿沼−楡木の例弊使街道、楡木から 壬生、飯塚の壬生街道、新田−小山−春日部−江戸への奥州街道 を利用し、会津からは六一里二九町の道である。