下野街道(南山通り) -009/109page

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第三節 街道の成立時期

 下野街道は、会津藩が、慶安二年(一六四九)幕命によって調 査報告した本道五筋の中の一筋で、寛文九年(一六六九)に会津 城下より隣国居城までの道程として報告している道でもある。

 下野街道の原形がいつ頃できたかを知る確かな資料はないが、 福島県教育委員会編『下野街道(南山通り)』によると「遺跡分布 状況及び出土土器の形式編年から、縄文中期には東北・関東・越 後との文化の往復が推定され、南会津郡田島町と栃木県藤原町を 含む山王峠を中心とする一帯は、後世の道路開発の先鞭をつけて いたことが考えられる」としている。

 本地域が文書資料に登場するのは、十世紀半ばの『倭名類聚抄』 (九三一〜九三七)の会津郡の項に「長江」の地名があり、これ が下野街道に係わる地名の初見である。「長江」は、後の「長江 郷」、「長江庄」であり、現在の阿賀川流域の下郷町・田島町の両 域を指した地名である。

 鎌倉時代に入り「長江庄」は、「陸奥国南山」の名称で関東の 豪族長沼淡路守宗政が地頭職として所領化し、正和元年(一三一 二)には長沼氏の庶流又五郎宗実氏が長江庄の一部「奈良原郷」 (本町楢原村)の地頭職となり、以後、南山長沼氏として惣領に代 わり南山一帯に勢力を張るようになる。

 下野国長沼氏の陸奥国南山への移住。このことは、下野街道の 道筋を特定できないまでも下野国から陸奥国会津領に至る道が、 ある程度整備されていたと考えられる。

 室町時代に入ると下野街道の道筋は、より確かな資料とともに 推論が可能となる。応永三十年(一四二三)、足利氏が小栗氏、 宇都宮氏、桃井氏を攻め滅ぼす。南山八郷地頭長沼氏もこれに参 戦し、南山立岩郷において宇都宮氏家人を捕らえる(『皆川文書』)。 長禄三年(一四五九)には、南山山内氏と白河結城氏が南山長沼 氏の居城を奪うが、長沼氏は会津葦名氏の助けを借りこれを奪い 返している(『塔寺八幡長帳』)。また、明応四年(一四九五)に は、松本備前・伊藤民部らが葦名氏に背いて宇都宮に逃げようと し、その途中で長沼氏に討たれている(『塔寺八幡長帳』)。これ らの資料は、いずれも会津と下野国を結ぶ道筋で展開されている 戦いであり、会津から下野国に至る道筋がある程度出来上ってい たことが伺える。

 さらに戦国期に入ると、道筋はより鮮明なものとなる。会津一 円を手中に治めたいとする会津葦名氏と、鎌倉以来、南山を統治 してきた長沼氏の半世紀にわたる戦いがある。永正一八年(一五 二一)、長沼氏が会津領に攻め入り、大内峠を越えた火玉村(後 の福永村)を焼き討ちした。これに対し葦名氏もその報復に南山 に攻め入る。こうした攻防が永禄十二年(一五六八)まで何回と なく繰り返され、最後は長沼氏が葦名氏に服するのである。
 しかし葦名氏も天正十七年(一五八九)には、東北の名将伊達 政宗によって滅ぼされる。

 翌十八年、伊達氏は豊臣秀吉が掛かっていた小田原攻めに参陣 するため道筋を下野街道にとる。−前略−直二参陣セラルヘシト 会津ノ大地(大内)ト云所マデ御出アリ、然二関東ノ諸城悉ク小 田原ニ相属シ、処々相抱へ、通路叶ハサル由聞セラレ、大地ヨリ 黒川城ニ御帰り−後略−(『伊達治家記録』)。

 一方、全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、同年八月九日会津に 入り、疾風のごとく奥州仕置を命じて会津を離れている。同じく 『伊達治家記録』によると、「(八月)二十二日。(略)去る(八月)十


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