下野街道(南山通り) -010/109page

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三日、関白殿黒川御発駕、南山へ御出。高原越ヲ成シ玉ヒ。御帰 洛卜云高原越二難所アリ。関白殿乗輿ヲ下り玉ヒ歩行セラル。今 其所太閤下(おろし)卜称ス」と記されている。

 天下人の豊臣秀吉の通行や伊達氏の利用は、大軍の人馬通行も 可能であったことを伺わせ、前述の糸沢宿にあったという会津宰 相寓(蒲生秀行)や加藤式部少輔(明成)といった宿札からは、 会津と下野国を結ぶ道筋が、この時代にほぼ近世の道形となるま でに整備されていたことを裏付けている。

第四節 街道と宿駅

 会津藩領内を貫通する基幹道路は、藩の初期においては南山通 り(下野街道)、白川街道、越後街道、米沢街道、二本松街道の 五街道で、これらは幕府に報告した道筋であることは先に述べた。 下野街道の会津若松−福永−関山−大内−倉谷−楢原−田島−川 島−糸沢−横川−中三依−五十里−高原新田−藤原−大原−高徳 −大桑−今市に至る各宿駅は、中世以来、軍馬の通行や藩主の通 行にしばしば利用され、あるいは商業上の輸送の発展とともにあ る程度整備がなされていたと思われるが、本格的な整備は寛永二 十年(一六四三)の保科氏の入部からであると考えられる。

 保科氏の就封とともに下野街道の大内村から糸沢村までの両山 地方と下野国の横川村から五十里村までが幕府領となった。しか し幕府領は、幕末までのそのほとんどが会津藩預り地となってお り、会津藩は私領同然の扱いでこれを統治した。

会津藩預り地直支配期間
回数 会津藩預り地の期間 年数 直支配の期間 年数
第1回 寛永20.7(1643)〜貞享4.11(1687) 44    
      元禄5.(1688) 〜宝永2.4(1705) 17
第2回 宝永2.4(1705)〜正徳3.6(1713) 8    
      正徳3.8(1713)〜享保7.8(1722) 9
第3回 享保7.8(1722)〜宝暦5.5(1755) 33    
      宝暦5.7(1755)〜宝暦13.9(1763) 8
第4回 宝暦13.9(1763)〜天保7.12(1836) 73    
      天保8.2(1836)〜弘化3.10(1846) 9
第5回 弘化3.11(1846)〜元治元.2(1864)      
   合   計 175   46

 宿駅制度の整備は、藩領国の経済を統一的に管理したいとする 施策と切り離すことはできない。会津藩の公式記録である『家世 実紀』をみると、正保四年(一六四七)に初めて藩から諸宿駅の掟 が出されている。

一、幾度も如触候、往還之侍衆へ慮外仕間敷候。駄賃馬不嫌 風雨夜間、如在仕間敷候。諸商人無帯令往還候様ニ可仕 候。籠賃・木賃ニ至迄非道無之様ニ可申付候。

   

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