下野街道(南山通り) -011/109page

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二、手負并吉利支丹かましき躰之者通候ハバ、見逃申間敷候。   道筋ニ而旅人一夜之宿可仕候。二夜と留申間敷候。子細候   て逼留候ハバ、其品所之代官衆、次ニ検断方江急度改可申旨。

三、湯殿山、柳津、飯豊山参詣之道者、軽尻馬借候ハバ、定駄   賃之可為半分候。荷物候ハバ、可随軽重候。旅籠銭、木賃   其所之米之直段、薪之有無を勘、常ニ往還之人より少分之   代物取可申候。無作法仕候ハバ、其所之検断・亭主・馬指可為曲事旨。   三ケ条被相定之候ニ付、此旨宿々ニ写置、堅相守候様駅々へ申付之。

 ついで承応元年(一六五二)にも、領内駅々の荷物輸送につ  いても定が出された。

一、会津中往還之荷物、馬次宿々ニ而改受取馬方ニ渡、先々へ入念相渡候様可申付旨。

二、馬方途中ニ而荷物猥ニ致候を、不念致受取候ハバ、宿主可為曲事候。

三、馬方不届之儀於有之ハ、召搦可致注進候。見逃候者可為同罪旨。

四、何荷物ニ不寄、少成共盗候者告来候ハバ、縦同類たりとも其咎を免じ、褒美可遣旨。

 これら宿駅の掟や荷物運送の定めは、藩もさることながら、宿 駅間の相互監視により、宿駅業務の秩序維持と領内交通の迅速を 図ったものである。寛文七年(一六六七)には一里六町とする制 度を一里三六町に改め、街道沿いには一里塚も築かれた。

 宿駅は、家屋の妻側を街道に見せて両側に整然と整備され、一 つの村を構成し、宿あるいは宿場と呼ばれた。家作についても、 宝永八年(一七一一)には百姓家作の制が出され、米の生産高に よって家の大きさや材木の吟味を受けたが、宿駅住居については 「駅所ハ専地所他所通之宿、其外人宿致候間、高を不限如前々家 作材木被下旨」と特別扱いされた。

 宿駅の整備を知る上では『田島町史第6巻下』所載の『糸沢宿 駄賃之覚』があるが、上記のように街道と宿駅が名実ともに整備 されたのは十七世紀中葉前半と思われる。

第五節 参勤交代の道

 近世初期における会津藩主の参勤路は、下野街道(南山通り) を南下し、今市から例弊使街道に入り、楡木から壬生街道、新田 から奥州街道と進んで江戸に入る道筋である。この道は、会津と 江戸間を五泊六日で行き来でき、後の参勤通行路となる白川街道 よりも一泊短縮できる道であった。このため下野街道は、西国へ の最短の道として早くから開かれた道であったと思われる。

 寛永二十年(一六四三)、加藤氏に代わり会津に入った保科正 之は、その翌年には途中で日光社参をしながら江戸へ参勤してい る。会津藩主は、その後の江戸往復にも下野街道を選び、三代正 客(若様)まで二十数回に及んでいる。

 下野街道の往還は、慶安元年から寛文九年まで途絶えるが、こ れは藩主松平正之公が四代将軍徳川家綱の後見役となったため で、この期間を除くと毎年のように江戸参勤の往還路となってい る。この外、『糸沢村宿駅勤方書上』にも見られるように、越後 国新発田藩主や村上藩主の参勤通行、あるいは年に何万俵という 会津藩の廻米も江戸へと送られ、この時期は、下野街道にとって


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