下野街道(南山通り) -012/109page
最も賑やかな時代であった。
会津藩主の往復
回数 藩主名 出立及帰着年月日 備考 1 正之(藩主) 正保元年(1644)10.1 江戸参勤 2 同上 正保4年(1647)9.25 帰国 3 同上 慶安元年(1648)1.20 江戸参勤 4 正経(若様) 寛文2年(1662)5.27 帰国 5 同上 "5年(1665)10.18 参府 6 同上 "7年(1667)3.21 帰国 7 同上 "8年(1668)6.8 参府 8 正経(藩主) "9年(1669)8.16 藩主として帰国 9 正之 "10年(1670)4.18 22年振り帰国 10 正経(藩主) " 8.6 江戸参勤 11 正之 " 10.6 参府 12 正経(藩主) "11年(1671)8.27 帰国 13 正之 "12年(1672)5.10 帰国 14 正経(藩主) " 8.8 江戸参勤 15 正之 " 9.13 参府 16 正経(藩主) 延宝2年(1674)4.5 江戸参勤 17 同上 "3年(1675)5.5 帰国 18 同上 "4年(1676)4.10 江戸参勤 19 同上 "5年(1677)5.2 帰国 20 同上 "6年(1678)4.9 江戸参勤 21 正容(若様) " 8.28 江戸登り 22 正経(藩主) "7年(1679)4.28 帰国 23 正容(若様) "8年(1680)3.26 江戸登り 24 正経(藩主) " 4.10 江戸参勤 25 正敬(藩主) 文政11年(1820)4.16 下向 第六節 五十里湖の出現
天和三年(一六八三)九月一日、日光神領で地震が発生する。 これにより五十里村南方の戸板山が山崩れを起こし、街道と平行 して走っていた男鹿川が堰き止められた。堰き止められた川は水 かさを増し、南北約一里に及ぶ湖が出現した。五十里村は水没し、 街道も分断された。
この五十里湖の出現が下野街道に大きな影響を与える。五十里宿は湖上輸送を試みるが、大量の人足・荷足は到底捌け るものではなく、参勤交代や廻米、あるいは一般商品荷物までも が別の道へと向けられるようになっていった。
下野街道の代替え道路として開削されたのが《松川新道》であ る。この街道は、会津若松から大川沿いに南下し、南山塩生村か ら那須連山の大峠を越えて栃木県の板室に出、矢板を経て奥州街 道の氏家に繋がる宿数十八、総里数約三一里十一町の街道である。
下野街道と松川新道の交通図
(『藤原町史 通史編』/1983 より転載)