下野街道(南山通り) -013/109page

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 元禄八年(一六九五)十月の開通とともに、元禄九年、十年、 十一年と三代藩主正容が参勤に利用し、あるいは廻米も何度か運 ばれるが、この街道も元禄十二年(一六九九)に大暴風雨が通過 し、甚大な被害を受ける。幕府は会津藩に修理を命じたが、藩は 財政が困窮のためこれを為しえなかった。そして松川新道も開通 後九年目には脇街道へと格下げとなっている。

 下野街道の宿駅にとって松川新道の開通は、より大きな打撃と なった。このため南山の村々より三、九四一人が出て五十里湖の 水位を下げようと試みるが失敗している。ところが享保八年(一 七二三)八月、それまで降り続いた大雨のため五十里湖は、其の 月の十日に大決壊を起こし、湖水に沈んだ元の五十里村が再び姿 を現した。しかし、湖水が出来て無くなるまでの四十年という長 い年月は、道路は回復したものの輸送情勢を大きく変化させ、衰 微した宿駅を回復させるには長い年月を要することとなった。

        第七節 宿駅と中付駑者(なかつけどじゃ)

 「中付駑者」とは、一人で数頭の馬を挽き、目的地に直接荷物 を運ぶ輸送方法である。幕藩体制下の輸送方法は、宿から宿へと 荷物を継ぎ送る「馬継ぎ」方式が原則であったが、会津と南山を 結ぶ下野街道では江戸時代初期には「中付」と呼ばれて存在した。

 中付の発生がいつ頃であるか不明であるが、「貞享二年(一六 八五)三月郷村地方内定風俗帳、長江庄田島郷」には次のように ある。

一、中付売買ハ手馬三四疋ニテ若松ヨリ米ヲ買、関東今市藤原   之市日ニ付出シ商。倉谷田島ヨリ米ヲ買時モ有。時ニヨリ帰   馬ニ塩ヲ買来ル。

一、扮中付モ手馬ヲ迫。若松、倉谷、田島ヨリ米ヲ買。伊南之   内檜枝岐村へ行、扮板ニ取替若松へ付ケ売。

 この風俗帳からは、中付に二つのルートがあることが分かる。 一つは、会津若松−倉谷−田島−今市ルートの下野街道と、もう 一つは会津若松−倉谷−田島から下野街道を分岐し、南山の西部 に入った伊南−檜枝岐を結ぶ筋であり、今市ルートは 「中付」、 檜枝岐ルートは「扮中付」と区別している。「扮中付」とは、檜 枝岐村に限り使われる名前で、田圃のない地方は周囲の森林材を 板材として売り、帰り馬で食料を調達した。このように「中付」 は、本来自分の荷に限り往復の付け通しが許され、これによる僅 かな利益から金銭で年貢を納めたのである。

 しかし、荷を直接目的地に運ぶこの輸送方法は、宿駅毎の付け 替えがないため荷の傷みが少なく時間も早く目的地に着くことか ら、商人の中には「中付」を利用する者も少なくなかった。

 中付と宿駅側のトラブルが起きるのは当然で、慶安元年(一六 四八)三石ヱ門口書(下郷町史資料目録 第3集)は、「中付之 儀近年みだりに相成り、駅荷物隠し付け通し、押領之儀数度これ 有」と役所に訴えている。これに対し役所は、「中付之儀は一統 一味いたし、何れも手強に相成り」と勝つ見込みがないとしてい る。これは、自分荷に商い荷との区別がつけにくいためと、中付 側は当初より団結力の強い集団であったためである。

 このような小競り合いが何度か続き、宝暦五年(一七五五)に は宿駅側、中付側がそれぞれに済口証文を交わしている。これに よると争点は付け荷品目の限定で、中付が若松に付け出すのは 「木地、木羽板、炭薪、箕皮、雑穀類」帰りは「飯米、酒、味噌 等其所入用品(日用品)」とされ、造酒米は禁止。飯米も直買い


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