下野街道(南山通り) -014/109page

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する場合は馬三疋までとしている。
 宝暦以後になると、中付は在郷商人を背後に次第に組織化され ていく。商人荷は表向き禁止であっても、迅速で積み荷が傷まず 安全となれば自然と中付集まった。天保九年(一八一一)、大内 から糸沢までの六ケ宿は、一ケ宿二十貫文ずつ支払うよう要求し、 中付はこれを呑んだ。嘉永二年(一八四九)にも、宿駅側は更に 口銭拾文の要求を出し、これも中付側は翌年に呑んでいる。この 時の宿駅側は五十里宿までの九ケ宿に及んでいる。

 嘉永五年(一八五二)、中付は駑者備金制度を発足させ、組織 に入った馬数は六〇〇頭に及んでいる。中付側は完全に宿駅を圧 倒し、宿駅の衰退は甚だしいものとなった。まして享保年間以後 の幕藩は、財政窮乏から年貢の増収を行い、半農藩宿で生活を支 えてきた下野街道の各宿駅も中期以降は荷駄量の減少と凶作の頻 発から人口も減少して生活は困窮を極め、宿駅として重要な馬数 を保持することも困難なあり様となってくる。

大内宿における戸数、人口、馬数の変遷
年号(西暦) 戸数 人口 馬数
元禄4年(1691) 66 351 71
享保5年(1720) 76 366 77
  "18年(1733) 71 350 77
延享元年(1744) 71 345  
  "3年(1746) 78 404 63
宝暦2年(1752) 71 338  
明和元年(1764) 67 314  
天明3年(1783) 67    
  "8年(1788) 58 226 26
寛政元年(1789) 50 270  
  "9年(1797) 50 270  
文化6年(1809) 52    
  "14年(1817) 50    
文政9年(1826) 50 252  
天保8年(1873) 44    
  "12年(1841) 39 246  
嘉永2年(1849) 46 274  
安政2年(1855) 48 268 53
明治4年(1871) 46 270  
  "12年(1879) 52 276 71

 幕末から明治にかけて再び馬数は増加しているが、これは駅馬 よりも駑者馬の方が輸送の活発を向かえたためであると考えられ る。下野街道の宿駅はこうして幕末を迎えるのであった。

第八節 下野街道の終末

 下野街道は、近世末期から明治にかけても多くの人たちが旅し、 あるいは駆け抜けた。
 一つは、諸国巡検使の通行である。一行一一八人は、天明8年 (一七八八)五月十四に会津に入り、十五日大内宿泊、十六日田島 宿泊、十七日田島から糸沢宿(昼食)−田島に戻って泊、十八日田 島から伊南郷に抜け、以後奥羽・北海道松前藩・奥州太平洋岸の 各藩を巡察して十月十八日江戸へ帰着している。

 この巡検使の中に当時地理学者として有名な古川古松軒が随行 しており、この記録は後に「東遊雑記」として纏められている。 この中には会津城下を始めとして下野街道の道筋村々の様子が書 き留められており、城下では 「会津候は二十三万石の御大家なが ら、城下甚だ侘しく賤しきなり。御城下ながら備前岡山の城下な どと見比べれば大いに劣れり。婦人の容体ことにいやし」と述べ、 大内宿周辺では「この辺一向山岳のみにて、記すべきことなし」、 田島では、「深山はかるべからず。人物・言語も至って悪しく、 海魚さらになく、川魚に赤腹・河鹿などという目慣れぬ魚はあれ ど、鯉、鮒、鰻などは土人知らずー中略ー食事大いに悪しく、毎 日山の芋と豆腐の外はなく、味噌・醤油の味わい苦く辛し」と大 変な酷評となっている。


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