下野街道(南山通り) -015/109page
この時期、前述のように会津藩の財政及び南山領民の生活は、 困窮を極めている時期であり、まして一度に百人以上の接待は間 に合わなかったと思われる。しかし、鯉、鮒は、たまたま食膳に 付かなかっだけで、これらは当地方でも古くから食されていたと 文献には残る。
次に嘉永4年(一八五一)の吉田松陰の通行である。この旅行 記も「東北遊日記」として纏められている。
「二九日微雨。七日町を発し、高津へ抵り別れを告ぐ。湯川橋を 渡る。湯川は古は黒川と称す。平蔵の緇川と號するも、此の名の 原づくなり。飯寺を過ぎ、本郷村に至る。村は陶器を造り、市上 に御許瀬戸捌問屋と標せるもの多し。舟にて会津川を渡る、川之 下流は津川に合す。関山を経、火玉嶺を越ゆ。嶺は上下二里。大 内に出て倉谷を経、楢原に至る。川を舟で渡り、長野を経、道傍 に人参を植うる者あり、云わく「三年にして掘る」と。田島に宿 す。戸口頗る多く、田野少しく開く、大内より五十里に至る五万 五千石、会津の御預地に係り、陣屋を置く、此の地方を総称して 南山という。駅傍に城址あり、昔長沼盛秀此に居り、蘆名に属せ り、是の日、行程十一里、晦日は晴、駅を発す。川島を経、糸沢 に至り、山王嶺を越ゆ、是れ奥野の界を為す。水脈も亦これに境 し、嶺以北のものは会津川に入り、嶺以南のものは下野の鬼怒川 に入るという。上三依、中三依を経て碇(五十里)に至る−以下 略−」とある。この時、吉田松陰は旅行許可証を持たぬ旅であっ たため、江戸帰国後その罪により萩藩に戻され閉居されている。慶応四年、戦国時代に甲冑武者が通り抜けたこの道筋に、再び、 血なまぐさい蹄の音が響き渡る。戊辰戦争である。街道筋は当然 戦火の渦に巻き込まれ、多くの民家が焼かれた。下野街道筋から 進軍してきた西軍本隊と松川新道から入った別隊が田島で合流し 会津若松へとなだれ込んだのである。その数は二〇〇〇人といわ れ、現在も旧街道の所々には戦役で犠牲となった東西両軍の墓が 建っている。
時代は明治となり、明治十一年、イザベラ・バードという英国 婦人が街道を歩いている。まもなく明治十七年には会津三方道路 と呼ばれる大川沿い(下郷分は松川新道)の道路が開設され、大 内峠はその道筋から外れており、その点でこの旅行記「日本奥地 紀行」は、下野街道の最後の状況を伝える貴重な旅行記である。 この旅行記は第〇〇信と、五、六日まとめて書かれているため詳 細な日程の判別は難しいが、所載の第十二信(完)を一部記して みよう。
「私は田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいた所で、 日本の町としてはたいそう美しい。この町は下駄、素焼、粗製の 漆器や籠を生産し、輸出する。−中略−そして汚いが勤勉な住民 のあふれている汚い村をいくつか通りすぎて、平底船で川を渡っ た。川の両岸には、また木がしっかりと打ち込んであり、藤蔓を 何本も結びあわせた太綱を支えている。一人は両手を使って綱を たぐり、一人は船尾で棹をさす。−中略−どの渡し場にも料金表 が貼り出してある。料金をとる橋の場合と同様である。事務所に は男が座っていてお金を受けとる。(改段)この地方はまことに 美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々と なった。山頂まで森林に覆われた尖った山々が遠くまで連なって 見えた。山王峠(中山峠か)の頂上から眺めると、連山は夕日の 金色の霞につつまれて光り輝き、この世のものとも思えぬ美しさ であった。私は大内村の農家に泊った。この家は蚕部屋と郵便局、 運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山にかこま れた美しい谷間の中にあった。私は翌朝早く出発し、噴火口状の