下野街道(南山通り) -016/109page
凹地の中にある大宅(追分か大内)という小さな美しい湖の傍を 通り、それから雄大な市川峠(市野峠)をのぼった。すばらしい 騎馬旅行であった。−以下略−」
まず、英国旅行家イザベラ・バードと幕末の地理学者古川古松 軒との感慨の違いに驚かされる。「日本奥地紀行」は、田島の町 並みの美しさ、南山の山並み、長野の渡しといった情景が見事に 表現され、現在は大内ダムとなった大内沼の辺を廻り、下野街道 を逸れて前記した越後国への近道と進んだことが伺える。
時期は遡るが明治五年(一八七一)、太政官布告により全国の宿 駅は廃止され、代わって陸運会社、内国通運会社が設立され、各 宿駅は揃って加入している。中付駑者も明治六年に中牛馬会社を 設立し、明治十二年(一八七八)には会津一円の中牛馬会社が組 織された。このことは旧態の宿駅と中付の構図となり抗争もあっ たが、街道筋は一応の小康状態を保つのであった。
しかし明治十五年(一八八一)一月に福島県令に任ぜられた三 島通庸は、着任直後の二月二八日、北会津、河沼、大沼、耶麻、 南会津、東蒲原の六郡の郡長を会津に招集し、会津は物産が豊か であるが四方を山に囲まれ、農商工全般の事業の妨げとなってい る。このため栃木、新潟、山形へ通ずる新たな道路を開削するよ う命じたのであった。その内容は、会津地方六郡の独身・病身を 除く十五才から六十才の全住民が、毎月一日二ケ年の労役に服す べしという過酷なものであった。
まず会津若松から下郷に至る道筋においては、大内峠越えの道 は避けられ、元禄八年(一六九五)に開けられた大川沿いの松川新 道が拡幅されて利用されることになった。楢原以南はほぼ原道を 進むが、山王峠を越えて栃木県に入ると、その名の起こりともな った川治を経由して再び下野街道に戻るいうもので、ここでも 「太閤下ろし」と異名をとった高原峠越えは避けられたのである。
明治十七年十月二七日、会津三方道路の開通式は盛大に行われ た。新しい道路は、新政府の政策力を見せつけるかのように巾員 も広く、管理も行き届いたもので、到底峠越えの細い道筋では対 抗のできるものではなかった。
戊辰の戦争も終わり新政府となって、小康・立直りの芽生えて きた楢原村以北の倉谷や大内、関山、福永村々にとって、このこ とは大打撃となった。
新道ができてからの大内峠は、毎年五月になると自分たちの持 ち馬を農耕用として貸し出す大内地区民の姿も見られたが、馬が 機械に代わる昭和三十年代に入るとその姿も見られなくなり、次 第に峠越えの道筋は人も入らない薮状態となっていった。