下野街道(南山通り) -021/109page
資料からも大内峠に茶屋があったことは確認できたが、大内集 落においても茶屋の存在は語り継がれていた。
本事業により峠の茶屋跡の発掘調査を実施したところ、茶屋跡 からは建物礎石とともに陶器片や古銭等の遣物も多数出土した。
峠の茶屋は、礎石の配置から同一場所に初期の建物と時を経た 建物の二棟が存在し、初期の建物が桁行六間、梁行四間半である のに対し、後期の建物は桁行・梁行ともに三間半となり、初期建 物の西北側に建てられていた。
下野街道は、寛永二十年(一六四三)に保科正之の会津入部と ともに参勤通行の主要街道として盛んに使われるが、天和三年 (一六八三)の五十里湖出現により、街道は寸断されその機能を 失っている。災害後においても会津と南山を結ぶこの大内峠区間 は人の往来もあったろうが、参勤交代や会津藩の廻米が他の街道 へと移っていることから、年間の通行人数は減ったことに間違い はない。通行人の減少はそのまま茶屋経営を危機に陥れたもので あったろうから、よって、初期の茶屋人は大内峠を下りる結果と なったのではないだろうか。また、時代を降りた建物については、 文政十年(一八二七)四月の藩主下向の際の建物である可能性が 強いと思われた。
出土遺物は、陶器片を主として古銭や戊辰戦争の際の銃弾も出 土している。陶器片の年代推定から、茶屋は明治の初めまで営ま れていたと判断された。