下野街道(南山通り) -022/109page

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(5) 大内峠古戦場

 慶応四年(一八六八)八月二十九日、下野街道筋を北上してきた 芸州藩を主力とする西軍は、大峠(松川新道)を越えて会津に入 って来た別隊と田島宿で合流。翌三十日には進軍を開始し、大内 村の端村である沼山で戦闘後、三十一日には大内宿に入った。大 内宿にはこの後通過した藩も含めるとその数は十二藩にも及んだ と云います。

 大内宿で陣を張った西軍は九月一日進撃。すでに大内峠まで撤 退を余儀なくされていた会津軍は、稜線沿いに軍を敷き、進撃し てきた西軍と追分沼(現在の大内ダム内)周辺において激しい戦闘 に入りました。会津軍にとって大内峠は越えさせてはならない南 側最後の要所だったのです。

 この峠を挟んでの戦闘は熾烈(しれつ)を極め、会津軍守備隊約八百名の 内、城内に戻った者はわずか三十名との記述も残っているほどで す。会津軍は大敗し、西軍は九月五日に若松に侵入ました。

 現在もその惨劇を物語るように、旧街道の所々には戦死者の墓 標が見られ、追分沼には戦士二十四人の墓が、峠を越えた栃沢に は土佐藩士七士の墓が西軍の墓として残り、大内宿には会津藩士 笹沼金吾の墓が、関山宿近くには会津藩士四十人の墓が街道沿い にひっそりと建っている。

大内峠古戦場


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