下野街道(南山通り) -023/109page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

(6) 大内峠一里塚

 会津領内を貫通する基本道路は、藩の初期においては白川街道、 南山通り(下野街道)、越後街道、二本松街道、米沢街道の五本で、 街道としての本格的な整備は寛永二十年(一六四三)の保科氏の会 津入部後であると考えられます。

 保科氏は、城下町並びに沿道の宿駅に対し、区間を定めてその 管理と普請の役を課し、寛文七年(一六六七)四月一日からは一里 を三十六町とするとともに街道筋には一里塚を築かせました。

 この大内峠一里塚は、起点である会津城下「大町札の辻」から 五里(約二十km)の位置に当たり、街道の両側に「対」となって残 ってます。下野街道の一里塚は、その大部分が「対」で構築され たと考えられますが、現在ではそのほとんどが消失し、あるいは 片側だけとなっています。「大内峠一里塚」やこれより一里、会 津側に存在する「栃沢一里塚」のように、「対」で現存している 箇所は希であり、県内でも貴重な文化遺産となっています。

 街道に築かれた一里塚は、旅人にとって道のりを知る上での貴 重な存在であり、荷役や駕籠の賃銭を支払う上でも大変良い目安 となったのです。

一里塚に植えられたとされる「榎」も、日差しの強い日には木 陰をつくり、休息の場として旅人の疲れを癒したのではないでし ょうか。

大内峠一里塚


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は下郷町教育委員会に帰属します。
下郷町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。