下野街道(南山通り) -024/109page

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(7) 二十四人戦死墓

 慶応四年(一八六八)、街道を望む稜線に軍を布いた会津軍と街 道を北進してきた西軍との戦いでは、大内沼あるいは追分沼と呼 ばれた静かな沼周辺でも、多くの戦死者を出しました。

 写真は、西軍戦死者の墓碑で、側面には明治四一年(一九〇八) の刻書が見られます。以前は大内沼の畔にありましたが、大内ダ ムの建設に伴い現在の地に移されました。

 また、これより南、大内村の墓地にも笹沼金吾という会津藩士 の墓がひっそりと建っています。会津軍が大内を退いたあとも一 人水車小屋に身をひそめて戦い、銃弾を受けた遺体はそのままさ らされ、これを哀れんだ村人がひそかに葬ったと伝えられていま す。

 大内沼は、安政二年(一八五五)村覚によると、「氷玉峠之麓追訳 ケ申所,廻り拾三丁、深サ弐三間、宝暦七丑六月十八目、山崩沼 ニ相成申候」とあります。

 英国の女性探検家イザベラ・バードが「小さな美しい湖」と評 した大内沼も、沼の畔を回遊した旧街道も、今はダムの水面下と なっています。

二十四人戦死墓
迎賓館


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