下野街道(南山通り) -030/109page
(15) 倉谷宿
倉谷宿は、大内宿から二里二町(約九km)の行程にあり、ここか ら三二町(約三・五km)で楢原宿に継ぎました。この後、楢原宿は 大川の「長野の渡し」を利用して田島宿に継ぎましたが、大川は 大雨時には水かさを増し、渡しが行われなかったため、しばしば 駅荷が足止めとなることがあった。このため倉谷宿(水抜村)には 入らず、西の折れて、戸石から赤土峠を越えて田島に至る裏街道 が利用されました。村の西には 「右 若松、柳津海道 左 戸石 から口みち」と彫られた宝暦二年(一七五二)の道標が建っていま す。
倉谷宿はこの分岐点に位置する宿であったため、この地域の中 心的な役割を果たした村でもあります。
貞享二年(一六八五)「楢原郷地下風俗覚書」によると、倉谷・ 水抜村では、寛永(一六二四〜)の頃から米市が立てられ、この市 は月に六回立ったことから「六斎市」と呼ばれました。この時期、 若松、坂下、高田、本郷、倉谷、田島と六斎市が立っていますか ら、一定区域内ではほぼ毎日のように市は開かれていたことにな ります。
近年においては住宅の改築が進み、宿駅時代の町並み景観は 徐々に失われてきましたが、茅葺屋根建物や屋敷地の石組、ある いは井戸などが往時の面影を色濃く残しています。