下野街道(南山通り) -049/109page
を大字湯野上に接する。東に小野岳 (標高一三八三・四m)、西 に神籠ヶ岳(標高一三七六・三m)・鳥帽子岳(標高一〇九五・ 四m) などに近接した山間部に開けた集落で、標高は六五八mを 測り、東側を小野川が流れ、上流には大内ダムがある。
大内地区は、阿賀川支流である小野川流域に開けた集落である。 近世には、会津若松から下野国今市に至る下野街道の宿場村とし て発達した。北は大内峠・氷玉峠を経て関山宿(現在の本郷町)、 北西境の市野峠を経て市野村(現在の会津高田町)に至る街道が 分岐している。
天和三(一六八三)年に地震による山崩れで下野街道の五十里宿 (現在の栃木県藤原町)が水没し、交通不能となり元禄八年に南 山松川通りが開かれると下野街道の交通量は激減した。享保七(一 七二二)年五十里湖の水抜けによって街道が復活したが、すでに主 要道は白河街道に移っていた。
古代以前の状況については不明な点が多いが、大内地区では五 箇所の塚や散布地が発見されている。大内・権現上・火矢陣原遺 跡は縄文時代の散布地、歳神道跡は奈良・平安時代の散布地であ る。四、調査の方法
発掘調査は、以前に実施した試掘調査の所見から、重機により アスファルトを除去した後に人力で用水路跡に堆積した土砂を取 り除いた。堆積土は長年道路として利用されていたため、堅くし まり困難を極めた。調査区は、旧水路底面中央に10m置きに釘を 打ち込み、北から10mごとに1〜31区とした。調査の記録は、原則として20分の1の縮尺で作成し、試掘調査 のトレンチは、A〜Sとして断面図を作成した。遺物は各調査区 ごとに出土地点・層位・レベルを記録して取り上げた。土層の記 録は、用水路内堆積土が算用数字、遺構外堆積土はLとローマ数 字を組み合わせて表示した。写真は6×4・5判のモノクロームフイ ルムの他に35mのモノクロームフイルムとカラーリバーサルを併 用した。
五、旧水路跡
今回の発掘調査は、平成三年の旧用水路確認調査や平成四年の 水道管堀り方調査で明らかになった水路跡について全面な調査を 実施した。調査地点が現在も観光客を含めて地元では重要な通路 として利用されており調査区の幅は限定された。調査区は幅二・ 五m・全長三二五mで、調査面横は約八一三平方メートルを測る。調査では主に用水路の掘り方を確認し、さらに石組を中心に平 面図・側面図・遺物のドットマップを作成した。石組が良好に遣 存していた地区は、北から1区東側・2区東側・3区・9区西 側・10区・15区・24区東側・31区のみで、旧水路に使用されてい た河原石はすでに抜き取られおり、聞き取り調査でも旧水路の廃 棄・埋設の段階で、新しい水路の石組みとして再利用されていた ことが確認された。12区・14区・19区・23区・24区は石が散乱し ており、用水路埋没時に石組を取り外して破壊した可能性がある。 また、水路跡は、底面が深くなり、かつ石組の膨らみから洗い場 と想定できる箇所が4〜10・12〜15・17・19・20・22〜31区で確 認される。
断面の観察では、試掘調査のために設定したトレンチで土層図 を作成した。水路幅が狭くなる地点もあるが、平均して50m前後 を測る。構造では側面に径が30皿の川原石を置き、裏込め石の小 石を使用している地区もある。底面ははば平坦で、細かな砂が薄