下野街道(南山通り) -050/109page

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く堆積しているのが確認された。

 六、遺 物
  (一) 遺物の出土状況
 遺物は破片の総数で、陶器片一、七七六点・磁器片九九六点・ 銭貨五一六点・その他用途不明品やガラス製品が十九点の総計で 三、三〇七点が出土している。各遺物ごとに接合を行っており、 その数はやや減少している。

 陶器では10区の一八〇点・2区の一一四点、磁器では10区の二 〇四点・11区の一〇六点の三地区が他の地区よりも多くの陶磁器 片を出土している。

 調査地点や同一器種と考えられる破片について接合作業を実施 したが、完形に復原された陶磁器は一点もなかった。すべて破片 で、1/2が復原されればよい方であった。

 銭貨は寛永通宝が九割を占め、採取番号や出土地点を検討する と、28区の九十点が最も多く、次に14区の四四点、26区の三七点、 24区の三一点と続く。数多くの銭貨の出土した状況では、数が十 点以上と比較的まとまって出土している。このような銭貨の出土 は、用水路廃絶期に水神に対しての強い信仰の現れと考えられ、 現在でも井戸・水路・便所などを廃棄する場合には、「米・酒・ お金・塩・梅やよし」 を投棄する例があり、本用水路も廃棄する 時にこのような祭祀を行った可能性が指摘される。

 陶磁器は、基本的には陶器と磁器に区分し、さらに器種別・生 産地・施釉別に分類した。器種は椀・皿 (大皿・中皿・小皿)・ ひょうそく・仏飯器・鉢・徳利・猪口などに分類される。生産地 は、肥前系・会津本郷系・生産地不明が確認された。施釉法は呉 須・コバルト・錆釉・鉄釉・白釉・灰釉・鋼線釉・透明釉などが 確認され、さらに草花文・風景画・昆虫文などの絵付けがある。

 石製品は砥石が主で、置き砥・持ち砥・粗砥・中砥・仕上げ砥 に分けられた。小型なものから大型のものまであり、表面には使 用痕も観察される。

 銭貨は、総数で五一六点出土している。この中で近世の銭貨が、 出土した銭貨の九割を占めている。主に寛永通宝が中心で、他に 文久永寶・一分銀・一朱銀などがある。寛永通宝は寛永十三(一六 三六)年から明治二(一八六九)年までの約二四〇年間にわたり鋳 造・流通した貨幣である。時代的には、大きく三期に分かれ、一 期の古寛永は、寛永十三(一六三六)年から万治二(一六五九)年、二 期以降を新寛永と称して寛文八(一六六八)年から天和元(一六八三) 年、三期は全国各地で鋳造された元禄十(一六九七)年から延享四 (一七四七)年及び明和四(一七六七)年から天明元(一七八一)年であ る。特に三期の鋳造地は全国におよびその種類も千種類以上が確 認されている。

 七、まとめ
 本年度は、大内宿の旧水路跡について全面的な発掘調査を実施 した。平成三年の旧用水路確認調査や平成四年の水道管堀り方調 査で明らかになった水路跡について、平面図及び断面図・側面図 を作成し、その後保存のため山砂を入れ埋め戻した。

 調査の結果、水路の断面を観察すると、数回の修復が確認され た。各家々の前には、不明瞭であるが洗い場のように幅が広がり かつ底面が深くなる地点も観察された。

 遺物は陶磁器・銭貨が多く出土している。陶磁器は会津本郷産 を中心に、肥前系・生産地不明があるが、時期はくらわんか手の 碗や 「砕石手」 と推定され、時期は十八世紀後半から十九世紀前


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