わがふるさと舘岩村-093/117page

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江戸時代には,新田開発がさかんに行われました。沼をうめ立てたり,荒地を切り開いたりし,水田を増やす努力が日本全国で行われました。人々の米作りへの意よくがよくわかりますね。
○ぎりぎりの生活をしていた当時の人々は,冷害や干害で米がとれなくなると大変でした。今とは,国のしくみも,政治のしかたもちがっていたので何千人,何万人とうえ死にする人が出ました。
江戸時代の大ききん
○1615年 東北地方大冷害(約380年前)
○1640〜42 東北地方大冷害
○1680〜82 全国大かんばつ,洪水(約310年前)
○1695   東北地方大冷害
○1701〜03 東北冷害,全国ききん
○1732   西国地方いなごの害
○1755〜56 東北地方大冷害
○1782〜87 天明の大ききん(約210年前)
○1833〜39 天保の大ききん
○1866   東国地方大冷害(約130年前)

▼どんな生活が想ぞうされますか。
天明のききんの図
天明のききんの図

五月十日、勢至堂峠から若松にはいり、南山を回って五月二十五日に猪苗代から中通りにでた古松軒は、各地で精いっぱいのごちそうをだしたのであろうが、どこでも同じ料理であったらしく、次の狂歌を残して会津を去った。「飽きし物 かじか 赤はら こてこ脆(はや)山坂 たまご わらび どぶろく(どぶろく、濁酒)。」
住居のつくりは藩で石高によって制限していた。奥の座敷は冠婚葬祭のような時しか使わず、ふだんは「にわ」と称して、板の間にむしろをしくか、土間に籾がらと藁をまき、その上にむしろを敷くかして生活していた。窓の少ない暗い家の中で、夜はやにの多い松の木をともして夜業などをした。また冬の積雪と寒さから馬を守るために、馬屋も母屋も中に作られていた。
いくら節約しても暮らしに困る農民たちは、「関東かせぎ」と称して、出かせぎに行くことが多かった。奥会津や耶麻郡の農民たちは、収穫がすんで雪が降りはじめるころ、数人ずつ連れだって山王峠を越えて、関東地方へ農家の屋根ふきに出かけていった。そして持ち帰ったわずかな金と留守中の女たちが織った麻布の代金は、生活費や年貢金などにまわされた。

▲そのころの南会津の生活のようす(わかりやすく書いた会津の歴史より)

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