伊南村の文化財(第一集) -008/029page

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久川城跡

久川城跡

 久川城跡は青柳と小塩にわたる南北約五百六十五メートル、東西約二百五 十メートル、比高五十三メートルの丘陵上に所在する。東は伊南川に臨み、 西は絶壁をなして、その下は滝倉沢の渓流となり、北はこれと合流した久川 が麓を流れる天然の要害である。『新編会津風土記』巻四十四の青柳村の項 には「久川城跡(中略)東西一町、南北四町、東西北三方に乾隍を廻す、北 を本丸とし、二丸・三丸其南につづき、間に堀切りあり」と記され同書及び 所伝によれば、古町の館に任した河原田盛次が天正十七年(一五八九)伊達 政宗軍の来襲に備えて築城したもので、のち蒲生氏の支城となったが、慶長 十六年(一六一一)に至り廃城になる。
 現在、城跡の丘陵は杉などの植栽が施されているが、城門とみられる南麓 の石垣構えの馬出しを始め、丘陵上の空堀、土塁およびこれらによって南北 の連郭式の区画された各曲輪は、おおむね往時の姿をのこしている。丘陵中 央部の本丸に相当する曲輪(南西隅に稲荷神社を祀る)は東西約九十メート ル、南北約五十メートルの規模を有する。
 遺構の保存の良好な点、歴史的背景および築城廃城の時期が比較的明確な 点など、戦国近世初頭の山城としてきわめて貴重な史跡と認められる。指定 区域の南に隣接する堂平の地区は城下集落跡とくに侍屋敷と推測され、その 存在によって、久川城跡の史跡としての価値はさらに高いものとなっている。
(『県教育委員会指定書(別紙)抜萃』)

 県 指 定 史跡
 所 在 地 伊南村大字青柳字小丈山・大字小塩字丸山・堂平地内
 所 有 者 馬場洪治 他 一三七名
 指定年月日 昭和60年 3月29日


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