新地町の文化財ご案内 -005/017page
城 跡
名 称 : 「福田古舘―黒木舘跡」 所在地 : 福田字西大窪 概 要
白河の結城宗広の家臣黒木氏一族の築城によるものと伝えられている。築城年代 は、建武から興国(1334〜1345)年間とも云われているが定かではない。安永8年の御用書上風土記に「諏訪古館、高十六丈五尺、東西五拾六間、南北三拾弐間」 と記されている。
本丸跡とされている所を中心に四囲に段丘があり、西側と東方の水田が一段低く帯状になっ ていて、常に湿地の状態になっていたので、外濠の可能性がある。また、北方に黒木氏の氏神といわれる諏訪神社があり、南西に八幡神社、南東に薬師堂が 建っていて、舘との関係があったと伝えられている。
名 称 : 「谷地小屋要害跡」 所在地 : 谷地小屋字古屋敷 概 要
南北二つの郛(くるわ)を結合させた回字状の平地舘。JR常磐線新地駅の西方約200メートルの水田地帯にある。かつて南の正門の西側に相対して、 桜の木があったことで「桜の舘」とも称されていたという。また通称「おやしき」といわれ ていた。
相馬盛胤、義胤父子が永禄年間(1558〜1570)に、亘理の亘理元宗に加勢すべく出陣し、 その帰途盛胤は新地に泊り、それを機会に舘をつくり、新地における相馬氏の拠点としたも のと考えられる。しかし、約1年ほどでここを捨て、西方の丘陵に「新地城」を新たに築い た。天正17年5月以降は新地駒ヶ嶺は完全に伊達政宗の領地となった。寛永5年(1628)に新 地及び福田は、亘理の伊達成実に加増され、成実は谷地小屋要害を修築して代官を置いた。
慶応4年(1868)の戊辰戦争のときには伊達軍の陣屋となったが、戦いに敗れた8月に家 臣の手によって焼かれた。