新地町の文化財ご案内 -006/017page

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名 称「新地城(蓑首城(みのくびじょう))跡」
所在地谷地小屋字舘前二

概 要

 JR常磐線新地駅の西方約1.8キロメートルの地点の丘陵上にある。最も高い地点は、標 高約48メートルで、眼下に周辺の地域が一望のうちに見下ろせる。

 「仙台領古城書上」に『山、谷地小屋城、東西50問、南北50間』とあり、また「仙台領古 城書立之覚」には、面積3,748坪とある。

 本丸跡とされている所は、平場をなしており、全周は土塁と濠が残っている。また、東館、 北屋形、西舘を囲んで外濠の跡もみられる。

 「奥相茶話記」や「東奥中村記」に築城の前後のことが記されており、それによると、永 禄年間に谷地小屋要害を捨て、新地の山に城を構え、門馬雅楽介を城代においた。雅楽介は 一年ほどで病死し、泉田甲斐を新たに城代としたとされている。この後、天正17年5月に伊 達政宗は相馬方の虚をついて攻め入り、新地駒ヶ嶺を手に入れ、亘理源五郎を城代とし、そ の後大町主計が城代となった。

 なお、相馬氏の前に新地城が築かれた説もあるが、確たる根拠がない。

   
名 称「駒ヶ嶺城(臥牛城(がぎゅうじょう))跡」
所在地駒ヶ嶺字舘

概 要

 JR常磐線駒ヶ嶺駅の西方約1キロメートル地点の丘陵上にある。

 「仙台領古城書上」には、『山、駒ヶ嶺城東西24間、南北52間』とあり、「仙台古城書立之 覚」には、面積1,248坪とある。

 城郭の南西に白鳥神社があり、ここから北東の丘陵一帯に築かれている。本丸跡は、東西 約60メートル、南北約30メートルの平場になっている。

 東と西の門跡には、枡形の土塁が残っており、また本丸より一段低く西舘、南に二の舘、 東に三の舘の跡があり、その周囲に外濠がめぐらされている。

 「東奥中村記」に『宇多郡駒ヶ嶺ニハ元来城無シ、新地便宜ノ為、藤崎村二屋敷構へシテ 原如雪ヲ置レシガ城無クテハ始終如何成トテ、盛胤ノ御代切開レテ城トハ成リヌ』とある。

 新地城とほぼ同じ頃に、最初藤崎に屋敷をつくり、まもなく駒ヶ嶺城を新たに築いたもの である。しかし、新地城と同様、天正17年に伊達政宗により攻略され、以後は相馬との境の 城として重視された。

 享保3年(1718)から伊達一族の宮内主税が城代となり駒ヶ嶺など1,400石を領していた が、慶応4年戊辰戦争の前線基地となり、同年8月11日、官軍方の攻撃によって炎上し、歴 史の幕を閉じた。町内には、このほか「木崎」「杉目」「藤崎」などに古城跡がある。

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