新地町の文化財ご案内 -008/017page
名 称 : 「虎嘯山龍昌寺・伊達(伊東)右近の墓碑」 所在地 : 谷地小屋字潤崎 概 要
本尊仏聖観世音、宮城県亘理町曹洞宗大雄寺末寺、慶安2年(1649)大雄寺四世 香洲和尚の開基創建と伝えられている。境内に、伊達(伊東)右近の墓がある。右近は、亘理の伊達宗実(政宗の九子)の次子、 刑部宗定(政宗の孫)が伊東家(仙台薄着座)を継ぎ、右近重定と改称した。しかし事情が あって亘理に帰り、新地の菅沢に家臣数名とともに住み、宝永7年(1710)に死去した。
古 戦 場
名 称 : 「御殿岬戊辰戦役跡」 所在地 : 今泉字南中磯 概 要
慶応4年(1868)8月7日から、戊辰戦役の駒ヶ嶺口の戦いが開始された。11日 には拠点である駒ヶ嶺が官軍によって攻め落とされ、その反攻作戦の浜通りの進撃を松山隊 が受けもった。8月20日の反攻作戦は、当初やや有利に進み、今泉からさらに進撃する態勢に移ったが、 ちょうど俄か雨が降ってきたため、火なわ銃は役に立たなくなった。
官軍は優秀な装備をしており、たちまち逆転して敗勢となりやむなく退却したが、官軍側 に退路を断たれてしまった。孤立した松山隊は、中磯の御殿岬に追いこまれ、海を背負って死力をつくして最後まで勇 敢に戦い、撃たれる者、斬られる者、断崖から海に落ちる者、ついに27名(内2名は負傷後) が壮烈な戦死をとげた。
この中には、両刀をふるい、果敢に抵抗した老齢の武士がいたということである。たまた ま別行動をとっていた隊長の鈴木市郎左ェ門は、責任を感じて大戸浜観音寺の古松の根元で 自害をとげた。鈴木市郎左ェ門の墓と、松山勢の戦死者の墓は大戸浜観音寺の墓地に建っている。
また、戦死塚が今泉墓地内にある。