■小学校6学年社会科(5)
単元名・単元のねらい 主な学習内容 博物館資料 資料活用の視点 (3)藤原道長と貴族のくらし ・貴族のやしきやくらしの様子を、藤原道長の権勢を中心に調べ、貴族の政治や文化をとらえるとともに、武士のおこりについて考える。
(4)源頼朝と鎌倉武士・武士の生活の様子や源頼朝の働きを調べ武十による政治の様子や文化をとらえるとともに、元寇がもたらした影響についても考える。
・貴族のやしきを歩いてみよう ・道長一族の勢い
・日本風の文化・地方が変わってきた
・武士のやかたをたずねてみよう・武士が東国を治める
・ご恩と報公でつながる・力強い文化が広まる
・元軍が北九州をせめる[c、律令の政治と行方郡] ・行方八社
・古代の神社信仰・原町市の神社
・高座神社・日祭神社
・冠嶺神社・多珂神社
・押雄神社[d、武十の世へ]
・相馬之系図・泉の十一面観音立像
・中世の主な羊院と神社・磨崖仏・行方八社は、10世紀に編纂された神社台帳ともいうべき「延喜式神名帳」に登載された神社のことで、「延喜式内社」あるいは「式内社」ともいわれる神社である。
・そのうち五社が原町市内にあったことから、原町市が行方郡の中心であったことに気づかせる。・多珂神社は、行方郡衙の守り神として重視され、「明神人」に格付けされていた。
・これらの神々は、古代の蝦夷征伐との関連でまつられ、陸」海上交通の要地や、郡衙の近くにおかれた。・桓武平長流相馬氏の系図、寛永18年(1641)に作成、奥州相馬家系図の原木。
・相馬氏は、平将門の流れをくむ家系といわれ、由緒ある家柄として著名であることにふれる。・文治5年(1189)、相馬師常が源頼朝から「奥州行方郡の内」と源家の東宝「八幡旗」を賞与された。
・相馬師常は、相馬中村藩の藩祖といわれる。・初めて奥州行方郡に下向し、この地を治めだしたのは、6代目相馬重胤である。(1323)
・行方郡衙跡と推定される「泉廃寺跡」があり、「泉長者」伝説をもつ泉地区にある。像高160.6cmの彫眼、寄木造りの秀麗な尊像・源頼朝による奥州合戦とその後の武士団の移住・開発は、この地方にも武士の文化的要素が広まる契機となったことに気づかせる。