■小学校6学年社会科(6)
単元名・単元のねらい 主な学習内容 博物館資料 資料活用の視点 (5)武士の文化と民衆の成長 ・金閣や銀閣などの建物や水墨画など、室町時代におこった文化の様子を体験的に調べ、武士や民衆に支えられた新しい文化がおこり、それが現代にも伝えられ生きていることをとらえる。
・書院造りをのぞいてみよう ・生活文化のみなもと
・世界の人々が親しむすみ絵・民衆が文化を生み出す
[d、武士の世へ] ・中世の主要城館と牛越城
・別所館跡(太田神社がある)・牛越城模型
・中世の行方郡と村むら・小高城跡
・牛越城・中世相馬領主の城館
・6代相馬重胤は、元亨3年(1323)に、下総国から奥州行方郡に移り、太田村別所館に住んだ、のち小高城に260年余り住み、慶長2年(1597)16代相馬義胤が牛越城を築いて移ることにふれる。 ・牛越城には6年ほど住んだが、短かった理由を考えさせる。
・当時、相馬氏の族や大身の武士は、館(多くは山城)に住み、相馬氏に従いながら近隣の村や在家を支配していたことに気づかせる。・真野川、新田川、太田川、小高川などの河川に近く、水の便のよいところに、水田が開発され村が形成されていたことに気づかせる。
・嘉暦元年〔1326〕相思重胤が小高に移る・建武3年〔1336〕相馬光胤ら小高城を築く
・慶長2年〔1597〕相馬義胤が牛越城を築いて移る・慶長8年〔1603〕再び小高城にもどる
・慶長16年〔1611〕相馬利胤が中村城を築き小高城より移る・今、当時のようすを伝えるものとして、本丸〔上水道配水池〕、1の丸、三の丸、空堀、(千人沢)妙見館などの遺構を残している。千人堀より束西300m、南北の最大幅は285mの丘陵城郭で、城の南方一帯は牛越原といわれ、毎年野馬追行事を行っていた
・牛越城の時代の不出な出火事・慶長6年〔1601〕義胤の弟北郷田中城代郷胤の死去、利胤夫人江戸崎御前が17歳で牛越城において早世、義胤父盛胤が中村城で逝去
・慶長7年〔1602〕相馬領三郡没収・そのため、慶長8年再び小高城にもどる。
・牛越城が続いていたら、原町は城下町としてどんな発展をしたか、予想させる。