関連単元名:かわってきた人々のくらし
展示コーナー:g:新田川の恵み
資料名:ヤナ、番小屋、ヤナ漁の変遷
ヤナ
竹・丸太・±俵なとを組み合わせて竹篭堰をつくり、川を甘き止め、遡上してきた鮭を獲らえる漁法。竹材(直径3〜4p、高さ3〜4m)をしゅろ縄で3カ所くらい編んで竹すのこを作る。これを竹篭といい、その土台として三角形に丸太を組んだもの(牛枠)をつかう。この牛枠を川幅に応じて数個設定し土俵をのせて押えつけ、さらに横木を渡して竹篭の下回り上下に土俵を置き小杭て押さえた。こうした従来の竹篭堰は鉄格子を使用したヤナに変わり現在に至っている。遡上期にはヤナ場の近くに番小屋を設け、監視人をおいて密漁を防いだ。
ヤナ漁の変遷
新田川は、全長53,869km、水量が豊かで川底に砂きれが多く鮭の産卵に適している。江戸時代、泉・北泉・上渋佐・下渋佐の四地区185名の人々によって行われていた。その後、特定の漁業集団ができ、藩から漁業権を得て鮭漁を行っていた。その際、藩は運上川と称して一ヵ年8両3分を税として納めさせた。当時の運上金の調達は容易ではなく、鮭での物納を願い許しを得て鮭816本半をもって代納した。藩は、鮭をコゴモリと称する塩漬けにして幕府や大名家に献上することを例とした。コゴモリとは、子籠りで塩漬けにした鮭の腹にその子を塩漬けにしたものを入れたものである江戸時代を通じて鮭を獲るだけで、産卵保護の方策をとらなかったため、漁獲高が減っていった。明治25年(1892)沿岸漁民は新田川下流漁業組合をつくり、翌年産卵区域を定め、産卵の保護にあたった。明治40年人口ふ化場を設置、新潟県から技術者をまねき技術指導をうける。水揚げが多くなりふ化場がせまくなったため、大正元年(1912)県の補助金で艀化場の大改造をおこなう。一カ年38400匹余を漁獲し、mo万粒を艀化するようになった。昭和26年(1951)新田川鮭蕃殖漁業協同組合の全身新田川鮭蕃殖協同組合がっくられる。