関連単元名:きょうどを開く天明の飢饉と御仕法
展示コーナー:e:天明の飢饉と村おこし
資料名:天明飢饉之図、中村藩の年貢、人口の移り変わり、餓死囲の俵
右上天明飢謹の図福島県会津高田町教育委員会蔵
左上相馬中村藩の年貢・人ロの移り変わり出典「邦本編」「相馬藩御経済略記」「相馬藩政史」
餓死囲の俵館蔵
飢饉にそなえ籾や栗なと非常食となるものを入れた俵
飢饉(ききん)とは天候不順の影響により、農作物に大きな被害を受け、食物が欠乏して、人々が飢え苦しむことをいう。
江戸時代に・この地方で最も被害を受けた飢饉は・天明3年(1783)から天明6年まで冷害が続いたいわゆる「天明の飢饉」である。このため餓死・逃亡などにより農村人口は激減し、田畑は荒れ果て農作物が不作となり、藩の年貢収納高は一気に減少した。具体的には、安永9年(1780)103,800俵が、天明3年には20,390俵と約5分の1までなっている。人口も57,974人が天明6年には35,785人と22,ooo人余も減っている。1俵=3斗2升
約50年後の天保4年(1833)、藩士紺野嘉左衛門がこの惨状を著した文献『天明救荒録」には、前年の2年から雨天が多く、夏は冷気が続き、作物も不良であった。3年になると、さらにひどく、夏でも綿入の着物でなければならない状況にあったとする。
天保4年より、天保の飢饉がおこったが、飢饉に備え餓死囲の俵を用意しておくなどの諸対策の成果により、被害は少なかったという。
飢饉の後の農村立て直しの方策に、二宮尊徳の「御仕法」のほか、農村人口の増加のために間引き禁止、子供への養育料支給そして主に北陸地方の浄土真宗関係農民の移住をうけいれた「移民政策」がおこなわれた。