博物館学習指導の手引き-031/098page

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関連単元名:きょうどを開く天明の飢饉と御仕法
展示コーナー:e:天明の飢饉と村おこし
資料名:富田高慶坐像、御仕法を実施した村々


天明の飢饉ののちの農村の立て直し、藩制の確立のための方策の一つが、二宮尊徳(1787〜1856)の教えを実践する日卸仕法」であった。尊徳の弟子でもあり中村藩上でもあった豊田高慶が尊徳の代理として領内の実施を指導し、成功に導き、弘化2年(1845)から明治のはじめまで27年間に領内226ヵ村のうち,101ヵ村が実施し、55ヵ村が成功している。※仕法とは、仕方や方法のこと。江戸時代では主に支配者が行う施策をいう。ここでいう「御仕法」は二宮尊徳の教えにもとづく施策及び事業のことで、このほか「報徳仕法」「尊徳仕法」「二宮仕法」ともいわれる。

富田高慶坐像 複製
富田高慶坐像 複製
文化11年(1814)〜明治23年(1890)。久助、弘道。中村藩士の子として生まれた高慶は江戸修学中の天保/0年(/839)、荒廃した領内を復興するため尊徳に入門した。そして門人のなかでの筆頭にまでなっている。尊徳の死後高慶は尊徳の教えを世に広めるため『報徳記』や『報徳論』を著した。

「御仕法」は、勤労・倹約・分度・推譲を原理とし、農民生活の安定のため、質素倹約とし備荒貯蓄を日的としている。但し、そればかりでなく村民たちの投票により働き者を表彰して、お金または鍬などの農具を与えることにより、農業への意欲を高めるとともに、困窮者の救済、家の修理、新築への助成などを行った。またあわせて、堤・用水路の普請・修理も行われ、原町市内では慶応4年(1868)に完成した桜井からの萱浜用水もその一つとされ、北萱浜の荒れ地の復興に利用された。
分度…各自にふさわしい支出の限度を定めること
推譲…将来にそなえ、また他人のために収入の一部を譲ること

御仕法を実施した村々
御仕法を実施した村々

弘化2年、成田村・坪田村(現相馬市内)から始まった。報徳役所調べによると、現在の原町市域である中ノ郷では、明治元年(1868)まで41力村のうち、実施した村は14力村、成功した村は8力村とある。用水路は、萱浜用水のほか、七千石用水(鹿島町)、室原川分水(小高町)、田尻用水(浪江町)なとかある。

二宮家の石神移住
明治のはじめ、尊徳の妻子は戊辰戦争の戦禍を避けるため領内に移住し、明治30年(1897)まで、市内の石神(現在の石神公民館)に住んでいた。また高慶家も石神に移住している。


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