博物館学習指導の手引き-032/098page

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関連単元名:伝統的な技術を生かした工業
展示コーナー:特別展:企画展図録no.11
資料名:相馬のやきもの、大堀相馬焼


相馬のやきものには、現在の相馬市田代窯の相馬駒焼と大堀相馬焼の二種類があるが、前者は御用窯(1))、後者は民窯(2))としてそれぞれ発展し、現在に至っている。
大堀相馬焼き(大堀焼)は元禄3年(1690)、奥州畑大堀村(現浪江1町大堀)の在郷給人・半谷仁左衛門(休閑)の下僕であった左馬が、中村城下(現相馬市)の相馬藩窯(田代窯)に製陶技術を学び、後に大堀村に開窯したといわれる。大堀焼の原料には浪江町の美森山から採取した良質の粘土が用いられ、釉薬には灰釉・糠内釉・飴釉・黒釉などが多く使われる。作りは全体的に薄く、手取りが非常に軽い。
この地方は、温暖な気候と良質の陶土に恵まれ、江戸などの大消費地に近いことなどから、多くの製品を搬出した。大堀相馬焼は碗・皿・徳利・土瓶などの日常雑器が主であり、安価で良質のため、漆器中心であった東北地方の日常食器に大きな変化を与えた。また、製陶技術も発達し、この高い技術は製品と共に各地の窯業地に強い影響を与え、この流れをくむ窯揚として、米沢成島焼、秋田白岩焼、富山小杉焼、山形平清水焼、笠間宍戸焼、益子焼等がある。相馬藩の保護と奨励・統制を受けながら次第に近隣の井手村・小野田村でも生産されるようになり、さらに8カ村に広まり、嘉永年間(1848〜1853)には百敷戸の窯元を数える一大窯業地となった。明治4年(1871)廃藩による援助停止や鉄道の開通による販路の縮小・廃窯という事態に直面し、大正期に入ると窯元も激減した。戦争による打撃を乗り越え、昭和53年(1978)に国の伝統工芸品の指定を受け、伝統を継承し現在に至っている。

現在の大堀相馬焼
現在の大堀相馬焼

糠白釉緑黒流掛徳利高さ17.8p胴径14.8cm19世紀
糠白釉緑黒流掛徳利高さ17.8p胴径14.8cm19世紀

灰釉油壷高さ21.6cm胴径12.4p18世紀
灰釉油壷高さ21.6cm胴径12.4p18世紀

色絵岩菊文土瓶高さ22.4cm胴径23.3p19世紀
色絵岩菊文土瓶高さ22.4cm胴径23.3p19世紀

やきもの製造工程

貝殻もみ(菊練り)
貝殻もみ(菊練り)

ろくろ成形
ろくろ成形

泥ぬり
泥ぬり

施釉
施釉

本焼
本焼

1)江戸時代に諸藩が経営した窯のことで、将軍家や他藩・公家に対しての贈答品や藩主や藩の使用品を作る窯と殖産興業のための窯とに分けられる
2)かっては御用窯、藩窯等を含めた官窯以外の営利を目1的にする民間経営の窯を指したが、現在では一般向けの実用品を製造する地方の小窯をこのように呼ぶことが多い


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