関連単元名:わたしたちの市の歴史探検
展示コーナー:a:相馬野馬追
資料名:野馬追図屏風
野馬追の起源と展開
伝えによれば、10世紀、相馬氏の遠祖といわれる平将門が、下総国小金原に野馬を放牧し、野馬を敵兵に見立て追いかける軍事訓練として始まったのが野馬追の起源とされる。また、軍事訓練とともに捕らえた馬を神へ奉納する神事として野馬追は行われた。将門の系統を引くといわれる相馬師常は陸奥国行方郡の支配を認められ、その子孫相馬重胤が行方郡へ移住したことにより野馬追も当地方へ持ちこまれたという。以降、代々の相馬氏当主が明治時代の廃藩置県まで野馬追を執行した。
江戸時代の野馬追
野馬追はおおよそ旧暦五月中の申の日に行われ、以下のように行われていた。
1日目…中村藩主および藩士が中村城(相馬市)を出発。原の町(原町市本町付近)に停泊し、藩士たちは野馬追原(原町市)で宵乗り(調馬訓練)を行う。
2日目…野馬追原にて野馬追を行う。まず原へ入った藩士達は陣形を組み、合図とともに騎馬武者らが原に放牧されている馬を追い、巣掛場木戸(原町市萱浜)から追い出す。馬は海岸(原町市小浜)の潮水で身を清めたあと・小高の妙見宮(小高神社)に設置された竹矢来まで追い込まれる。
3日目…小高の妙見宮での野馬懸。前日に追い込まれた馬を、「御小人」と呼ばれる白装束姿の人たちが素手で捕らえ、神へ奉納する神事を行う。
左隻
野馬追図屏風
右隻
野馬追図屏風
江戸時代の野馬追の様子が描かれた、六曲一双の屏風。右隻は右より順に、原の町における行列、原の町木戸より野馬追原に入る騎馬武者、本陣の様子、陣形を組み裸馬を追う騎馬武者が描かれている。左隻は右より順に、巣掛場木戸から追い出される裸馬、追われた馬が海岸の潮水で身を清める様子、小高の妙見宮における野馬懸の様子が描かれている。
特に野馬懸の部分は、現在の野馬懸とほとんど変わっていないことがうかがえる。