博物館学習指導の手引き-043/098page

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関連単元名:米づくりのむらから古墳のくにへ
展示コーナー:c:豪族と古墳
資料名:容器と利器の変遷


今から1万2千年前、土器が出現した。縄文時代は約1万年続き、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。早期中頃までは・土器は主に深鉢形に限られていた。前期になると深鉢以外の器種として、浅鉢が成立してくる。中期には器形が多様化し、文様も立体的装飾が発達してくる。後期になると文様が簡素化された深鉢が現れる。注目土器・香炉形土器・壼形土器なども作られた。晩期は器形の変化は増えるが、独創性のある器形は少ない。縄文土器の名称となった「縄文」とは植物質繊維を撚り、指の一関節程度の長さの原体を土器面に押しつけ回転させることによってできる文様のことである。縄文土器に続いて弥生土器が製作される。弥生時代の土器は、貯蔵用の餐、盛りつけ用の高杯や鉢で形成される。弥生土器は縄文十器に比べ薄手で、土器の形も機能が優先されたものへと変化していった。古墳時代になると、縄文土器・弥生土器の系譜を継ぐ土師器が製作される。当初は弥生土器と同様の器種構成であったが、須恵器の登場に伴い変化がみられ、貯蔵貝に代わり煮沸具などが増加している。当初は窯を使わない焼成であったが、小形の窯もつくられるようになった。「延喜式」に「賛土師圷作土師玉手土師」などの記載があることから、その名がつけられた。須恵器は5世紀前半、朝鮮半島から伝えられた技術で作られた土器で、ロクロを使用し形を整え害窯によって縄文土器・弥生土器・土師器より高温で焼かれた土器。窯の燃焼が最大になった時・焚き口を閉じ・酸素を奪う還元焔焼成という方法で非常に堅いやきものができあがる。焼成時の灰が付着し自然袖となり、器の一部にかかっている場合が多い。この須恵器は、これまでの土器から妬器へと発展させ、その結果、技術は飛躍的に進歩し、平安時代の陶業の基盤を作り、鎌倉時代になると全国の須恵器窯は中世陶器へと移行していった。青灰色で非常に堅いが、火に弱いため水や酒などを貯蔵したり食物を供献ずるのに使用された。中世になると還元焔焼成から、窯に酸素を送りこむ酸化焔焼成へと転化していく。この方法で焼かれたやきものは赤味を含んだ赤褐色に仕上がる。中世以降、素地にガラス質を含み紬がかったやきもの、陶器が生産されるようになる。17世紀の初めには磁器焼成が始まる。磁器は素地の珪酸分が多く、ガラス質で粕はガラスの被膜となり、吸水性がほとんどない。本県の窯業は江戸後期に本郷・大堀の二大生産地があり・幕末から明治初期にかけて東北各地や北関東・新潟県にまで技術が伝播した。そしてこれらの伝統は現在でも継承され続けている。
1年を1mmとした場合のそれそれの土器が使用されていた時代を長さで表した。
1年を1mmとした場合のそれそれの土器が使用されていた時代を長さで表した。

やきものの種類
種類 特性
釉薬 焼成温度 吸水性 透光性 断熱性 特徴
土器 無し 700〜1000℃ 大きい 無し もろい水漏れする
陶器 有り 約1250℃ 小さい 無し 大きい 日本のやきものの中心釉で水漏れを防いでいる
磁器 有り 約1300℃ ほとんど無し 有り 小さい 素地は白くてきめ細かい


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