博物館学習指導の手引き-047/098page

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関連単元名:源頼朝と鎌倉武士
展示コーナー:d:武士の世へ
資料名:相馬之系図、関東下知状


相馬氏の行方郡支配
文治5年(1189)源頼朝は奥州に勢力を持っていた平泉の藤原氏を追討し、建久3年(1192)には征夷大将軍に任命され鎌倉に幕府を開く。その際に功績のあった相馬氏の始祖である相馬師常は、元々の領地であった下総国(千葉県および東京都・茨城県の一部)に加え、陸奥国行方郡(原町市・鹿島町・小高町・飯舘村)の支配を任された。

相馬之系図 相馬之系図
江戸時代に作成された相馬氏の系図。系図によれば、相馬氏は平将門の系統を含む一族として記されている。
相馬重胤の奥州下向
相馬師常から数えて6代目の当主相馬甫胤は、元亨年間(1321〜1324)頃に下総国の領地から陸奥国行方郡へ移住し、太田村別所館(太田神社周辺)に住んだといわれる。重胤はその後小高村(小高町)へ移り、以降の相馬氏当主は行方郡を中心とした奥州を拠点に、江戸時代が終わるまで領国経営を行った。なお、鎌倉時代に領地を授かり、江戸時代が終わるまで一度も国替えがなかったのは、この相馬氏と鹿児島の島津氏・人吉の相良氏の3家のみである。

関東下知状 関東下知状
相馬氏の一族、岡田氏に伝えられた中世の吉文書。永仁2年(1294)鎌倉幕府が岡田氏に対して「院内(原町市益田)」「大三賀(大誓)」なと、行方郡の村を支配することを認めた文書。中世、相馬氏が行方郡を治めていたことを示す古文書である。
岡田氏は14世紀に相馬家から分れた一族て、相馬重胤の行方郡下向に同行した相馬胤康か、行方郡岡田村(小高町岡田)に館を構えてから岡田氏を称した。鎌倉時代から明治維新まで、一門筆頭として相馬氏を支えた家柄である。


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