博物館学習指導の手引き-050/098page

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関連単元名:武士の文化と民衆の成長
展示コーナー:d:武士の世へ
資料名:中世の行方郡と村


中世の行方郡と村むら
中世の行方郡と村むら
中世の古文書に記された行方郡の村むらは、地図の通りである。真野川・新田川・太田川・小高側などの河川に近く、水の便の良いところに水田が開発され、村が形成されていることがわかる。これらの村むらは、相馬氏の一族や、他の豪族達の領地で、代々相続されていた。また、各村むらはいくつかの在家からなっていた。在家とは、在家役(租税)を集める農民(在家農民)とその家屋・宅地・付属する島地・田地を含めたものを一括して呼ぶ名称である。そして、在家農民は家族・一類・下人(隷属民)などを率いる家長として、村むらの中心をなしていた。
これらの在家農民を在家として把握し、在家役を徴収したのが、その村の支配者(地頭)であった。地頭はさらに上級の領主に対して公事(島地・山野河海の生産物)を取り立てて納めなければならなかった。
相馬市の居城小高城の南1.8キロほどのところにある岡田館に住んだ一族岡田氏は、行方郡のうちの岡田・八兎(不明)・谷川原・鶴谷・院内(益田)(原町市)、飯土井狩倉(飯舘村)を支配し、さらに岡田館より南へ2キロほどの大悲山氏にあっては、大悲山(泉沢)、小島田(鹿島町)の村々を支配していた。
右の写真は、相馬市の一族岡田氏に伝えられた古文書である。これは、相馬(岡田)胤家譲状で、相馬胤家の所領を嫡子胤重に譲り渡したものである。それによると、院内村(現在原町市益田)・大三賀村(同大甕)・谷河原村(同矢川原)・つるがや村(同鶴谷)などの村が見られ、これが岡田氏の領地として代々受け継がれていたことがわかる。
古文書

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