博物館学習指導の手引き-051/098page

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関連単元名:3人の武将と全国統一
展示コーナー:d:武士の世へ
資料名:中世後期の群雄分布図


中世後期の群雄分布図 中世後期の群雄分布図

中世後期の相馬氏中世を通じて行方郡に加え宇多郡・標葉郡を支配した相馬氏は、第14代当主顕胤(1508〜1549)から第16代義胤(1549〜1635)の代まで、おもに米沢(山形県米沢市)の伊達氏との戦いを繰り広げることとなる。年数にして約50年、30回余もの戦闘が両家の間で行われた。
相馬義胤と伊達政宗
天正6年(1578)相馬氏第16代当主となった義胤は、当時の伊達氏当主・輝宗と渡り合ってjいたが、輝宗の嫡子・政宗が天正12年(1584)家督を継ぐと、政宗は二本松の畠山氏・須賀川の二階堂氏・会津の匿名氏などを次々と攻略し、南奥羽最大の戦国大名となった。政宗の軍勢は相馬領にも及び、天正17年(1589)には相馬領の駒ケ嶺城(新地町駒ケ嶺)・新地城(新地町)が攻略される。その後も義胤は、政宗に攻略された城を奪回しようと試みたが敗北、弟の隆胤や重臣たちが次々と討ち死にし劣勢となった。
しかし、そのころ関白に任命され、全国統一を目前にしていた豊臣秀吉の「惣無事令(大名の私闘を禁止する命令)」は、関東・東北地方に及び、相馬・伊達の杭争も終了した。
豊臣秀吉と相馬氏
関東・東北を除きほぼ全国を統一していた豊臣秀吉は、天正18年(1590)小田原の北条氏攻略の際、東北の各大名に小田原への参陣を命じた。記録によれば当主であった第16代相馬義胤は、同年五月下旬に小田原へ参陣し・秀吉から宇多・行方・標葉三郡4万8700石の領地安堵の朱印状を拝領したという。
関ケ原の戦いと領地没収
慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の間で「関ヶ原の戦い」が勃発する。当主であった相馬義胤は徳川家康の招きに応ずることなく"中立"という立場をとった。戦後、義胤が三成と親しい(嫡子・虎王は元服する際、石田三成の一字を賜り「三胤(のち密胤・利胤と改名)」と名乗っている)こと、家康と敵対した佐竹義宣と縁戚であること、家康のために積極的に戦に参加しなかったことなどがとがめられ、慶長7年(1602)宇多・行方・標葉の三郡は没収され、相馬氏は断絶の危機に陥った。
その後、義胤の嫡子・三胤は三成から受けた「三」を「密」と改め「密胤」と称し、相馬に縁のある幕府の旗本をつうじて家康の家老・本多正信に相馬家再興の訴状を提出する。その後正信の仲介で家康・秀忠と面会した義胤・密胤親子は旧領三郡の安堵を認められ、近世大名として復帰することになる。


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