博物館学習指導の手引き-052/098page

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関連単元名:3人の武将と全国統一
展示コーナー:d:武士の世へ
資料名:中世後期の群雄分布図


領地目録安政2年(1855)3月5日 領地目録 安政2年(1855)3月5日
この領地目録は、幕府から相馬家に発給された領地を示した目録である。寛文4年(1664)4代将軍家綱から将軍の代替りごとにほぼ同じ形式で出され、これは13代将軍家定の時のもの。相馬家の領地は、行方郡94か村・標葉郡51か村・宇多郡のうち36か村で、石高で6万石となる。石高とは、江戸時代の米の生産高をあらわす単位で、実際の検地により決められた。領地が1万石以上を大名という。脇本善明氏所蔵

江戸幕府により大名統制策として、一つの国には一つの城しか置いてはいけないとする一国一城令がとられた。相馬家では、慶長16年(1611)、相馬利胤が新たに中村城(現在の相馬市内)を築造し、中村を城下町とし宇多郡の一部(相馬市の一部)、行方郡(原町市・鹿島町・小高町・飯舘村)、標葉郡(浪江町・双葉町・楢葉町・葛尾村の一部)を領地とした。中村城下町は、なるべく碁盤の目になるように整備され、武士屋敷と町屋敷に区分され.28石以上の武士は城下に移住させられた。また、町屋敷でも、給人・足軽・小人の住む町、商人の住む町、大工町といった同じ職人が集住した町に分けられ、名前からそこに住む人の職業がわかった。
中ノ郷地形模型と野馬土手 中ノ郷地形模型と野馬土手
領地内は郷単位で編成され、元禄9年(1696)から11年にかけて行われた領内総検地の後、宇多郷・北郷・中ノ郷・小高郷・北標葉郷・南標葉郷・山中郷の七ヶ郷となった。現在の原町市域は中ノ郷となる。野馬土手は、野馬追原のまわりに土手を築いて野馬が出ないように囲ったもので、寛文6年(1666)築いた。土手の各所に木戸があり、j東を通行する際の出入りロに利用された。現在残存する木戸の一つに羽山木戸(原町市指定文化財)がある。この土手は、東西約8kmで、南北約2.7kmを取り囲んでいた。

相馬中村藩の中ノ郷の村々と史跡

野馬道
江戸時代、野馬追の時、野馬を原の一角である巣掛場木戸前まで追い込み、そこの木戸を開けると、野馬は飛び出し南に続く野馬道を通って現在の相馬小高神社前に設けられた矢来の囲みに入り込んだという。翌日そこで野馬懸が行われた。


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