博物館学習指導の手引き-054/098page

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関連単元名:徳川家光と江戸幕府
展示コーナー:e:中ノ郷と原の町宿
資料名:旧武山家住宅、三百一本の鑓

旧武山家住宅復元模型 旧武山家住宅復元模型
母屋は桁行9間、梁間4.25間(下屋共)で、4室列に構成され、この地域の農家より1空列多い。土間付近は板縁を張り出し、下炉を設けているが改造部分か少ない。ザシキは2室あり、共に長押、天井を作り、畳を敷いていた。奥のザシキは床の間、棚、書院なとの座敷飾が簡素ながら備えられ、一応の格式をあらわしている。建築年代は18世紀後半頃とされる。ここでは、1間=5尺7寸(約173cm)

旧武山家住宅
現在の市内北原にある旧武山家住宅は、現存する母屋が中村藩の在郷給人の典型的な住宅として、昭和46年3月国指定文化財(建造物)に指定されている。旧所有者の武山家の祖先は、武山家由緒書によると、以前は武石と名乗り、始祖の三郎胤盛は千葉介常胤の第三子で、相馬家と同じく、鎌倉時代の千葉六党の一家であり、その末裔とする。天文年間(1532〜55)以降、相馬家に仕え、江戸時代には北原村に住み、武山と改名し、16石取の在郷給人となった。
旧武山家の屋敷地は約4000uで、中央に母屋、東側に棟続きに納屋・馬屋があり、隠居・閑居・雪隠(便所)・土蔵といった建物が母屋周辺に配置されていた。

三百一本の鑓
安永年間(1772〜81)、城下侍(御家中・麓給人)642人、給人郷士(在郷給人)1555人であったとする。(『相馬藩政史』)その約150年前の元和3年(1617)、武士が過重な負担に反抗し、連半して免除を申請するという「元和事件」が起き,583人が知行没収という処分を受けた。このとき訴訟には加わったが調印しなかったため、禄高を減らされたのみで済んだ武士が301人ほどいた。万治元年(1658)、相馬忠胤はこれらの子孫に対して、祖先の功績を讃え鑓を与えた。これを三百一本の鑓」と称し、その家系を「三百一本の古給人」とする。在郷にはこれら給人と中切給人、そして正徳年間(1711〜16)以降取立てられた武士を郷士と呼び区別していた。

在郷給人への知行書小林栄一氏所蔵
在郷給人への知行書小林栄一氏所蔵

三百一本の鑓
三百一本の鑓
大和田光俊氏所蔵末永勝嘉氏所蔵


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