博物館学習指導の手引き-062/098page

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関連単元名:長く続いた戦争
展示コーナー:f:戦争への道
資料名:神風特別攻撃隊山本卓美、中野磐雄

陸軍飛行学校原町分校開校式
陸軍飛行学校原町分校開校式
八牧通泰氏蔵

昭和14年(1944)4月飛行場建設が、翌年6月に熊谷陸軍飛行分教場が開校し、若い航空兵の訓練場としての教育を行った。開校当初は、航空士官学校乙種戦闘操縦・襲撃操縦学生の実施訓練を行っていたが、戦況が苦しくなるに従い本土決戦特攻隊錬成基地となる。大甕上空を飛行演習する陸軍九五式練習機は「赤とんぼ」と呼ばれ、開校当時には九五式練習機14機・九九式三型練習機2機が使用されていた。

神風特別攻撃隊の中野磐雄
海軍航空大本部で編成された神風特別攻撃隊の第一回目の出撃は昭和19年(1944)10月である。その第一陣「敷島隊」の5名の中の3番機は、原町出身の中野磐雄である。中野磐雄はフィリピン・レイテ島スルワン沖で零戦に250キロ爆弾を搭載し、米空母に体当たり攻撃をした。
斎藤文雄氏蔵
斎藤文雄氏蔵

山本卓美の日記と遺書 山本卓美の日記と遺書
海軍による特別攻撃は、結果として通常の部隊攻撃に代わる攻撃方法として、陸軍空軍部隊や他の部隊にも採用されていく。昭和19年11月には、陸軍特別攻撃隊原町飛行隊が編成され、勤皇隊13名、鉄心隊11名、皇魂隊9名が原町から戦場に向け出発している。勤皇隊は山本卓美中尉以下13名が昭和19年(1944)12月7日から10日にかけてフィリピンのレイテ島オルモック湾にて特攻戦死する。山本卓美は、遺書代わりに日記を残している。そこには、原町を出発し鉾田→浜松→大阪南(和泉)→新田原(宮崎北)→台北(台湾)→屏東→ラオァッグ→クラーク→ニイルソン→レイテ島で戦死するまでの部隊の移動径路が記されている。

山本卓美の日記昭和19年(1944)
山本卓美の日記昭和19年(1944)
山本卓眞氏蔵


山本卓美さん(勤皇隊)
山本卓美さん(勤皇隊)
山本卓眞氏蔵


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