大悲山大蛇物語 - 066/075page

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と見て編して行く。

 数年前であったか、製作年月日は忘れたが、小高町貴船神社屋根裏から「行方五郎隆行」と寄進者銘のある、八百余年前の貴重な鰐(わに)口が発見され、小高神社に保管したと新聞が大きく報じていた。この五郎隆行公とは、父岩城則道(のりみち)公の死後、母徳尼御前の五子分封により、行方郡を与えられ、小高の堀内城に住んでいたが、文治の役(一一一八九)で、奥州平泉の藤原氏征伐に出動した、頼朝(よりとも)軍に抵抗したため領地を没収され、その領地は、藤原氏征伐に軍功を立てた関東の相馬師常(もろつね)公に与えられた。しかしその後も行方氏の喬が八代胤勝公まで堀内城に居住していたという。

 この事は当時奥州に加増地を貰った関東の武将らは、自分は関東に住み、奥州の領地には代官を立てて統治していたので、相馬氏も旧領主の行方氏をもって、その役に当たらせていたのであったろうか。それが百三十余年も続いたが、元亨三年(一三二三)相馬師常公の喬重胤公が下向して来た事によって、行方胤勝公は領地を返上し、堀内城も相馬氏に明け渡し、菩提(ぼだい)寺である大井の歓喜(かんき)寺(現相馬市)に入り、剃髪(ていはつ)して乾隆(けんりゅう)上人と称したという。上人は吉奈にも吉奈山摂取(せっし)院(現相馬市)を創立し、号を学山及び玉都と称したことが見明院緑起に見える。

 (二)、大悲山沼の大蛇

 若侍に化けた大蛇が語る己が素性は、私はもと人間で、標葉左衛門吉綱という者(一説には新山城主。但し東奥標葉記に記す城主は標葉持隆公の次子隆連(たかつら)公)の子松王(まつおう)と申す者。楢葉館(現双葉町下羽鳥)主石川奥重(おくしげ)の姫今女(こんじょ)に恋慕され、姫の邪恋を断とうと思い、仲禅(ちゅうぜん)寺(現浪江町小野田の元仲禅寺、または双葉町寺沢の仲禅寺かは不明)の観音様に祈願した帰り、寺前の仲禅寺沼の岸辺に姫が我を待ち伏せ、袖(そで)にすがり、恋の思いをかき口説き、それが現世で適わずと知るや、我に急に抱きつき、転(ころ)びて二人は沼に落ちて無理心中と相成った。そして女の執念が凝(こ)って二人は大蛇となる。我もまた姫の深情(ふかなさ)けにほだされて夫婦(めおと)となり、仲禅寺沼に棲(す)んでいたが、年を重ねて幾久し、蛇体が成長して沼が狭くなり、ここの大悲山沼に移り棲んでいる。しかるにいやが上にも蛇体が成長したため、この沼もま


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