大悲山大蛇物語 - 068/075page
陀(だ)(消失)と薬師の過去、現在、未来仏の七像を配す事によって、三世に亘る永久(とわ)の仏国を象形化したものである。従って物語には主尊の観音を登場させたものと考えられる。
(四)、大蛇を退治した相馬光胤公
光胤公は第六代藩主相馬重胤公の子で、斯波家長に属して父と兄が西上した、その留守を松鶴丸を擁して守り、その間、足利の将大泉平九郎に属して攻防戦を展開していたが、建武三年五月二十四日、北畠軍の攻撃を受けて戦死する。関東から下向して十三年目であった。
物語に光胤公が城主とあるので、物語の事変が生じたのは、建武二年十二月頃より光胤公が討ち死にする翌年五月に至る、約六ヶ月の問に起きた出来事であったろう。
三、筋 書
以上の如き登場人物を念頭に置き、大蛇物諮のストーリーを探ってみる。
物語を詰めると、大蛇が「大悲山沼が狭くなったので、明日より七日七晩大雨を降らし、小高郷一帯を大沼に化して棲む」と、秘密を玉都坊に漏らした事に始まる。これは前述した時代背景の中にあって、王朝方は、足利の拠点である相馬氏を滅ぼす手段として、堀内城の水攻めを考えた。同城は前川と川房川が合流する中洲(今は地勢が変わる)に構築され、四方に水濠を巡らした要塞堅固な城であったが、増水には弱い。この弱点を、旧城主玉都坊の献策によって知った王朝方は、郷民の難渋を考えたが、窮余の手段として涙を呑み、日時を定め、上流の総(すべ)ての堤を一斉に決壊して洪水を起こし、堀内城を水浸しにして壊滅しようと謀議した。この軍議には、王朝方諸将に交り、十年前相馬氏に領地と城を明け渡した、行方胤勝の玉都坊も加わっていた。そして相馬氏が滅亡した暁には、玉都坊が以前の如く領主に返り咲く事が約束されていた。