大悲山大蛇物語 - 070/075page
という。当時同地には王朝方で活躍する相馬胤平公が住したという説もあるので、勝利した光胤公は、続いて耳谷、女場、角部内館をも攻略したことであったろう。そう云えば、角部内の北に位置する村上城には、後で後村上天皇になられる義良親王が、一時玉坐を構えていたとの伝説もあるので、相馬氏が下向して来て日浅い当時としては、その事が考えられないことでもない。
斯波家長に属して鎌倉に駐留していた相馬重胤公は、建武三年二月十八日付の書状をもって光胤公に、丘上の現小高城址へ居城を移すことを申し来ている。恐らく堀内城を水没せしめんとしたこの騒動は、光胤公より重胤公に急報され、その対応策も具申された事であったろうから、騒動は前記の二月十八日以前。または王朝方の右の動向を察知した光胤公が高所への移城の指示を仰いだ返書とも見られる。とすればこの大悲山薬師堂騒動は、紅梅山浮舟城構築の因をなしたとも云える。
話は変わり、後日に相馬藩士が編した“奥相志”に「行方氏は小高旧主の故をもって諸人これを敬う」とあるも、これはそればかりではなく、我が身を捨てて郷民の難を救った玉都坊の義挙に感動した郷民が、その子孫にいついつまでも敬意の念を抱えたのが、そうさせたのであったろう。
後日談。堤破壊作業隊長が死に直面して「この恨みは三年以内に……」と叫んで死んだという。その時期は案外早く訪れ、約二ヶ月後の五月二十四日、浮舟城に移り守備を固めていた相馬勢は、北畠軍の攻城により、松鶴丸を除き、光胤公を初め一族郎党約千名が討ち死にする。
後 書
相馬氏が関東から小高へ下向して約十年。その頃中央では、天皇と天皇に反逆した足利尊氏が互いに政権を争う。そのため好むと好まざるにかかわらず、各地方の豪族達はその渦中に巻き込まれ、己が生存をかけてそれぞれの派に