大熊町民話シリーズ第1号 民話 苦麻川-013/055page

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の殿上山(とのがみやま)に居住していました。

関が原の役(えき)で岩城氏が没落してから、相馬にてきて代々相馬氏に仕えるようになりました。元禄時代に入って相馬藩では領内に米蔵をつくったり、堤・堀・切通し・土手などをつくって農業の振興につとめましたが、助宗の父助惣(すけそう)は南標葉郷(みなみしねはごう)の代官として三春論山事件で活躍し、五十石の加増(かぞう)をうけました。

助宗もまた、正徳年間に利根川(とねがわ)や荒川の河川工事の係などに派遣されておりましたが、藩の南境小良浜の里に堤を築く命をうけ、里の人々を人夫に繰り出して工事にとりかかりました。

上下ニツの堤をトンネルでつないだ立派な堤が、助宗の熱心な監督と里人達の努力で年の終りになってみごとにできあがりました。その日、中村のお城(しろ)から派遣された藩の吟味役(ぎんみやく)が、できあがりを検査するために出張してきました。

堤のほとりの丘の上で工事の模様を聞いたあと、堤の周囲を見て廻った吟味役は、工事小屋に戻って上座に座るなり云いました。

「こら助宗、この堤は水を海に注(そそ)ぐために作ったのか。」びっくりした助宗は、「堤は海に向って作られてありますが、水は丘を一廻(ひとまわ)りして数町(ha)の田に注ぎます。」と説明しましたが、吟味役は聞こうともしません。「不届至極(ふとどきしごく)である。謹慎(きんしん)して藩命をまつように。」


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