大熊町民話シリーズ第1号 民話 苦麻川-014/055page
吟味役は馬に乗るなり、供をしたがえて熊駅に向って去ってしまいました。
一言の弁明(べんめい)の余地もあたえてもらえなかった助宗は、落舘(おちだて)の丘にたって無念の涙をたたえながら去って行く一行を見送りました。
散りのこった枯葉をふき散らすしぐれ模様の日だったと云われています。
その夜、新妻助宗は責任をとって堤の丘の上で切腹して果てました。
堤の恩恵をうけた数十人の里人は、切腹した堤の丘に小さな祠(ほこら)を建てゝ、助宗が死んだ日を祭日と定め、赤飯をたいて永く助宗の霊を慰めました。
そして堤の名を助宗の堤、祠を助宗明神と呼んできました。
旧正月の十五日こそ助宗切腹の日であり明神の祭日なのです。
《第七話》
はなどり地蔵
熊の町の地は早くから開けたところで、奈良朝の御代(みよ)に浜海道を官道として整備した時に、日(ひ)