大熊町民話シリーズ第1号 民話 苦麻川-032/055page
あげられて一たまりもなく田圃(たんぼ)の中にけり込まれてしまいました。
その頃三〇頭から四〇頭の牛の群れを追った南部の伯楽(ばくろう)が春と秋の二回、幾組も幾組も、牛追い歌を唱いながら遠く常陸(ひたち)の国のほうまでのんびりと日を重ねながら牛売りの旅(たび)を続けていたのです。
里の家では馬を多く飼っていましたが、酒屋は勿論のこと、運送を業とする人達は沢山(たくさん)の牛を飼っていました。米や鉄・塩などの重い荷物を山上の細い難路を運ぶには、力のつよい牛の方が歩き上手だったのです。
大川原の里に一軒の鍛治屋(かじや)さんが住んでいました。酒屋の牛になんか負けるもんかと熱心に手入れしていましたので、鍛治屋さんの飼う三頭の牛は丸々とふとっていました。
鍛治屋さんは、請戸浜(うけどのはま)から仕入れた鉄や附近でできた塩や乾魚を、牛の背にのせては険(けわ)しい山上の会津街道を中通り地方や会津まで運んでは売りさばいていたのです。
その火は五月晴(さつきば)れの良い天気でした。三頭の牛に荷物を一杯つんだ鍛治屋さんは、とまりを重ねて五百川(いほがわ)沿いに中山峠を越えて猪苗代湖にたどりつきました。
右には磐梯山が美しい姿を見せていましたし、湖畔のたんぼにはお百姓(ひゃくしょう)さん達の姿が群れていました。