大熊町民話シリーズ第1号 民話 苦麻川-044/055page

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魚や、山野から鹿やその他の動物を捕(とら)えて暮していました。

そのうちにだんだんと海の水が引いて、谷あいに小川が流れる様になったので今度はこの水でお米をつくってたべるようになりました。海の水が引いたとき小川に沿った谷間に二つの丘が浮かび出て、松やその他の木が育ちはじめました。

上手(かみて)の丘には鶴(つる)が多く集まって住んでいたので、里の人々は鶴が森と呼ぶようになりました。

川下(かわしも)の丘は海に近いので、多くの亀が上って来ては群れ住んでいたので亀が森とよぶようになりました。

里の人々は、鶴と亀ほど吉祥なものはないというので、鶴が森と亀が森を部落発展の象徴としてのこす様になりました。
「なんでも、ペリーという亜米利加(あめりか)の隊将(たいしょう)が黒船に乗って来た頃だというから百年以上も前のことだっぺ、大島から椿(つばき)の種を一杯積んで仙台藩に運ぶ船が熊川沖で難破してな、熊川から小良浜の浜辺に椿の種が一ぱい打上げられたのを、椿の木は浜風に強いし、椿油(つぱきあぶら)は貴重なので植えたのが小良浜と、小入野の椿並木だとよ。」

里の古老は、鶴が森・亀が森と並べて椿並木をこのように語っています。


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