大熊町民話シリーズ第1号 民話 苦麻川-046/055page

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れていましたが、幼いながらも武田信玄を父の仇とねらい刺し殺そうとして寝所に入ったというので、やがて長野の善光寺に送られ長野侍者(ずしゃ)として寺に仕える身になりました。

この頃甲斐の国の武田信玄と、越後の国の上杉謙信との川中島をめぐる争いが刻々とせまっておりました。

武田信玄が自分を殺(ころ)そうとして刺客を出したことをいち早く知った寅王は、天文二十四年(一五五五)に六部姿に身をやつして善光寺をぬけ出し、北関東の神社や仏閣を巡りながら永禄元年三月(一五五八)に標葉(しねは)の郡(こおり)野上の里にたどりつきました。

十三才の年に善光寺を出てから三年あまりの歳月がたちました。

寅王は流浪(るろう)の間に元服して頼貞と名のっていました。

野上の里に入ってから三年目、永禄三年(一五六〇)に、寅王主従は野上川のほとり鹿(しか)が峯(みね)に登り、芒々と拡がる野上原をへだてゝ青くかすむ太平洋をながめ、あまりにも故郷諏訪の地に似ているのに驚き、一方紫雲にたなびく三森山(みつもりやま)一帯の霊気にうたれて、これも氏神諏訪大明神のお告げであろうと三森山の麓砂出(ふもとすなだし)の草庵(そうあん)を結び諏訪大明神をまつり、父頼重、母称々(ねね)始め諏訪一族の霊をまつり土着しました。

慶長元年(一五九五)、諏訪氏が滅亡してから五十年、寅王たちが野上の里に入ってから三十


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